語りによる参戦

ターケルの本に『よい戦争』ISBN:4794959761ュー集がある。「戦争」にも良い/悪いの「作法」があるようで(苦笑)。「戦争」って事はヘンだ、ひとの生命を脅かすのはイカンって直感的に大抵のひとは思うんだけど、だけど、そのヘンでイカンことがこうしていつまでもまかり通ってしまうのは、何故だ?というナゾ。
実際に今の日本に居て戦争経験者でない者が今現在の戦争について語ることは、完全に想像上のことでしかないだろう。
現実に常に生命を曝されていないと生存の不自由は、他者には「不自由だろうなー」という感覚的な過剰な想像をめぐらせることしか結局は語れない。紛争地域に色々行って見たとしても、「眺める」のと「曝される」のとではその価値観は大きく違う。それはいくら「慮っても」そういう他人事スタンスとしての限界がある。
しかし感覚はいつかしか観念に昇格?し、観念が正当性とか正義を、そして敵をこしらえる。それは、「反戦!」を掲げる場合でも同じであろう。妙に感情的になったり隣人症ぽくなったりしてもね、実際に様々に生命の危険に曝されてるひとは「それどころぢゃない!」っていうだろう。いくら生存を脅かされようが、肉体への外圧あるかぎり生物本能としてそれに全力集中し、行動の不自由は誘発されてもそれが直ちに存在の不自由に直結することはない。だから、TWCが崩壊しようが、デイジーカッターが炸裂しようが、劣化ウラン放射能を排出しようとも、どんな残虐な殺戮が行なわれようが、そこここの彼らの存在自体はゆるぎなく、どうこうできる筈もない。
それは戦争話に限らず、どのようなスタンスでも傍観者的に語っているようでいて、いつのまにか、「感覚で人を殺す」ということに加担してることにもなるかもしれないんだよな。しかし他者の存在&生存を含めた有り様はそうやすやす個々人の存在や感覚ゴトキでは、左右されない。もしかして、その否定したい有り様に耐えきれない感覚が増幅して行き場なくって、逆に集団だから、安易に粗っぽく戦争とかテロとかやりだしちゃうコトに。。。
大抵のひとはそんな物量/行動力ナイわけで、せいぜいが排除だ撲滅だ粉砕だ抹殺だのの過激な呪いを吐いて、そしてナンにも変わらない状況にやっぱ耐性なく、吐いた毒で自分の存在の不自由に追い詰められるたりなんかする。眺める大無粋ってことに、これでもかのメディアに慣れっこになって、戦争情報=悲劇を楽しんだり便乗する自分に無自覚になっているのかもしれない。そこでナニをどういおうとも、「曝され」続ける側と「眺め」まくる高見の優越感の断絶は埋まらない。
その断絶を埋めようとする一番簡便な手としては「被害」のカミグアウトである。こうして何時も、何故か「被害者」ばかりいるという受け身状況が発生する。ああツライ、ツライ、アナタも弱者、アタシも弱者、だから胸はってなんにも為なくていい。どんどんなにも出来ない-いや実は弱くあることで目先の利益を得る共同体が強固になっていく。知らなくて出来なくて当然って大合唱、自主的に自らの力で未熟で無知になろうとする集団。こうして自分が何者であるかということに構造的に目をそらし、早々に自らの悪さえ放棄したひとには、配慮はおろか他者の悪なぞ糾弾できやしない。それは欺瞞という。
あずかりしれん他者がどっかで勝手にやってる事でなくって、ノーテン気にここぞとばかりに○○憎しと断罪と正当正義にやっきになることでもなくて、そうした大文字の問題で活きたり埋没したりする自分でもなくって、そゆ感覚をめぐらす自分の有り様にそのものに起点はゆるぎなくあって、あだこだ想像めぐらせようとも結局は個々の感覚に戻され、その解のない理不尽をかみしめ引き受ける。それが、眺めるほどに曝される、いまここで活きるリトルな自分のしょぼいが大切なリアルということか。そゆ理不尽を引受ける覚悟すらない、内省や改良の入り込む余地がまったくない「語り」は、自己肥大による他者への領海侵犯でしかない。
自己破綻はありえないという前提ほど、想像力のないリスキーなことはない。そしてそれはいかなる思想&政治的立場をとっていようとも、日本政府が日々やってることと相似形なんである。そんなだから米国の軍事行動について、日本人の建前の歯はいつも国際的には立ちえない。「イラク問題」については派兵賛成派/反対派共になんだか問題の建て方からして破綻してるのではないだろうか。ま、派兵賛成派にとってはズレてる(=カラッポ)からこそ「ショー・ザ・フラック」してもイラクへはたいした影響力なくって米国へのおつきあいも「国際的」に立って丁度いーかって考えてんのかも、新米。