主体

「責任を放つことで自己解放して主体を得る」という主張は管理支配する側にとって実に好都合である。お手軽に「知らないこと、出来ないこと」の結果を葬りさろうとするから、知らないで出来ない自分について認知できないし、認知できないからこそこれまた幼稚な全能感とやらで、なにについても「便利」「楽ちん」になるよという夢をふりまいて、「我々が全て責任もって対処するから(脳ナシでいて)大丈夫」といって、傍観者は詳細なんか知るべき者が知ってればいいと、権限譲渡白紙委任が当たり前とばかりに、すべてを強引に主導権をにぎって押しきればいいからである。
責任の取れないひとは決断は出来ない。と、いうことはそのようなひとは決定権もナイということだ。場当たり的自由を追っかけてると、全体的不自由に繋がる。賛成派よりも反戦派はそれが解ってない。だから賛成派の仕掛ける「お涙ちょうだい」にいとも簡単にいつも乗ってしまって、賛成派の補完をするカタチになる。
イラクに於ける日本人/自衛隊NGO/ジャーナリストというそれぞれの政治的意味を何処まで当人達が理解してたのかというのは、これからも質され続けるだろう。確実なのは「無辜」とか「中立」という自己主張は完全に内向きの言葉であり、かの地の情勢(=制度外の他者)では「ありえない」ということである。そういう他者から向けられるある種の色を認識し引受けた上に、かの地で出来うることの可能性を探るというのが「当事者主義」のシビアなところなんだけど。