とりあえずで、いいや

『すぐれた意思決定―判断と選択の心理学』に拠れば、判断予想には、楽観的なのと悲観的なのと均衡的なのと、ざっくり3つのパターンがある。
建前/理念=言ってるコトは、演繹的に最良のものを選び出す最適化の原理(規範的意思決定論)で貫かれてるけど、しかし実際は処理手間の最短=効率を最優先し、当人も十分その情報&知識があっても折角の知識情報は考慮されず狭い範囲の合理化を突発的に性急に行って(記述的意思決定論)=やってるコト、結果、全体として非合理にしてしまう…ってことはありがちかと。
例えば『なぜITは社会を変えないのか』ISBN:4532149312、デジタル効率第一主義は意味の一元化につながり結果的に非効率に陥るパラドクスが書かれている。そうした傾向が「中間領域」の喪失になっているということが、実務現場でもおこっている。http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/20040318/141592/
そこまでテクニカルな最先端でなくとも、日常「とりあえずビール」とか「ビールいいや」という無難を取るヤリ方は、無意識にあちこちでなされている。よく考えれば此れ程ビールと提供する店に対して失礼きわなりない横暴な態度なんだけど。しかしそれは選択当人にとってはアウトオブ眼中なんだよな。同席したお仲間に向かって、かぎりなく自己主張を抑えた無難=謙虚な姿勢をかぎりなく消極的にアピールするという儀式の一環だったりする。んが、これがお仲間いなくて一人で店に入っても、「とりあえず…」と、口にでてしまったりする。もーなんで「とりあえず」かよくわからん。ボチボチやっていこうというカンジかなぁ。
ひとに嫌われないよーにバカにされないよーにだのという受動コードで常に自己の羅針盤を動かすという自分の意志を自分の内部で自力で探り深めようとせず、仲間内の動向や声のデカいオピニオンや権威文献やマスコミの論調を聞いてからでないと自己意志が考えが「わからない」という風な、外的価値観によって自分の行動や選択を決めている、主語ナキひとは結構多い。そゆひとは、自分は大勢をみきわめて最良の方法論としての均衡的判断をくだしていると思っているんだろーけど、しかし、そこでは「自分」というファクターがヌケているのがミソ。いろいろ考えているんだといいつつ保留しつづけて、さてそれぢゃあナニ考えているのかといえば、自分がこの場合どういう位置にいれば一番ソンをしないのかという「失敗しない為」の処世術があるだけで、いつも大勢(お仲間)に従うトコにみつけた後追いなワタシそれは、到底自己意志とは自己判断とは言えない。常に自分の意志が明確になるとソンとゆー悲観的判断が大前提に、感性を慣性に置き換えて思考停止。そんな状況過剰適応ばっかりしてるから、いつまでたっても活きづらいではないのとおもうんだけど。うっかりしてるといってしまう。「…ま、いいや」って。
人生はそんな主体的決断しないですごせて、大抵のコトは、自分にとってどーでもいーことなのかも、しんない。複数の〈私〉さえ確認しつづければ。