認識と文化

なにがしかを判断する前に、その「なにがしか」を認識しとらんとハナシになんない。しかしその「認識」というのがこれまたクセモノなんである。
『認識と文化―色と模様の民族誌』では、エチオピア西南部のボディ族へのフィールドワークの失敗を通して認識された、「ものの見方」という文化の多様性、豊かさが、調査過程を通して立ち上ってきている。
ある種の物理的特性の感覚そのものを記述する類の語=「経験の言語」というのには、幾つかの特徴がある。
客観的・論理的基準によって、順序づけて配列可能。経験の言語の指示対象物は、本来的に連続している。これらの語は、閉じたクラスをさしている。指示対象物の各瞬間ごとの状態をある測定値によって、完全に定めることが出来る。
「経験の言語」として色彩/温度/音などがあげられるが、これらの感覚的な語彙は、表層のメタファーを通してさまざまな文脈に結びついている。認識は他の文化的事象と関連してどのように形成されるのかを探っていって「普遍」を探求しようというのがこのフィールドワークのねらいだったようだ。具体的にそれは、色/模様の認識調査から、識別の基準となってる「牛」の社会的位置づけ、さらには個々のアイデンティティに繋がる。色彩から固有の豊かで壮大な世界観までドラマチックに展開していくプロセスは、壮大な文学作品並の感動ものである。
本書は補講として、文化心理学の定義をあげる。
人間を、人工体を創造することによって自らの生きている生活環境を補正する能力と、蓄積された補正を言語にコード化された手続きや知覚物を通して次世代に伝承させていく能力、という2つの能力を備えた存在とみなし、人間の知的能力がいかに、文化によって媒介され、歴史的に発展し、日常の実践活動の中で生成されるかを明らかにする研究である、とする。

ボディ族については下記のように纏められてる。

ボディの人々は「モラレ(自分の色/模様)を持つ」ということによって、社会生活の中で、「自分(ワタシ)」という固有性を認められながら、しかも「社会の集団(ワレワレ)」の一員といなる。子供はそのようなプロセスを通して、「ワタシ」と「カレラ(大人の世界)」とを結び付け、関連づけ、彼らの営みに「参加」することを学んで行く。また、森羅万象を理解するとき、「ワタシの分身」を世界に発見し、その分身の位置づけや役割を見付ける、というプロセスで、外界の一才を「了解」するわけである。

最後に「合法的周辺参加」という徒弟制の学習概念をひきつつ、学習者の社会的コミットメントの重要性にふれながら、我々の社会への「間違い」を、示唆する。

社会が個人の「自己の確立」を支えつつ、個人の「社会化」を助け、さらに個人の「社会への参加」と同時に「世界認識」の基盤を与えてく、というプロセスは、現代の私たちの発達や教育におけるゆがみを明確に映し出してくれる。すなわち、私たちは子どもの成長における「アイデンティティ」を、個人のパーソナリティ形成の過程として、いわば、「本人が(自分で)獲得するもの」とみなし、人が社会化するときは、まさに社会の一員(One of Them)としての「無名的な」扱いに慣れていくことと考えがちであった。
…世界を認識し、社会を知るということは、「自分(ワタシ)」とは無縁の、「みんな(カレラ)」の営みを「内化」することによって達成するのだ、と考えていたのではなだろうか。