社会システム論

もともとワケワカメな複雑性を縮減してコミュニケーションを可能にする意味を与えるのがシステム論の意義だとはおもう。それは厳密に論理構成しようが、ドコまでいってものハナシである。で、あるからそれこそがシステム論者の強みである。
多様性を謳歌した80年代のハテのオウム事件でかろうじて強度を保った論説も、社会システム論の持つこうした特性故であり、それが為に「宮台信者」といわれる思想ヲタが増幅した。負けない為のシニシズム&ロマンとして。
ところががネットという膨大なの絶え間ない流動集合体により、人文学的一点透視図的論=マトリックス結晶化は、立てたそばから全て脱構築=消費瓦解して、タコ壷化となる。
そうするとそれをコントロールしようとしてか「自己相対化の運動、それ自体がシステム化している現代社会の行き着く果てが道徳や倫理だ」みたいな理論社会学がいわれだす。システムのハテに倫理だ、と。北田暁大 『アメリカ的プラグマティズム:リベラリズムと<帝国>』ルーマンとか使ってそんなカンジに見える。モラル(感性)をも射程距離に入れたことで「社会学帝国主義」に益々近づいているのではないのかなぁ。はたしてそれは健全な理論に発展するんであろうか?ひどく人を選ぶ理論に発展する恐れのほうが強いんだけど…。
勿論、選民思想になんないよーにあれやこれや「あえて」「あえて」バームクーヘンして配慮しつつ細心の注意を払って論理だてしようとする試みが実際的でなくって枝葉末節に思えて、最後の稲葉さんの質問みたいな「そんなにややこしい話なんでしょうか?」と疑問におもってしまうのだよな〜。