コントロール願望のハテ

均一化したモジュールとしてひとをカテゴライズしがちなシステム論が、感情的に嫌悪感をもたれるのは今に始まったことではない。
歯止めの不在こそが近代〈個〉成熟とかいってガマンしてたけど、リベラルだのリバタリアニズムだのコミュニタリアリズムだのの、アイロニーのナワでガッチリと締めつけられて、「AならB」id:hizzz:20040424#p5でどーにも行き場も退却場もなくって「降りる自由」とかいってるしかない。
いやー、だったらその「AならばB」論自体を見直すもしくは作り替えればいーと、ワタクシは単純におもうんだが、そーはならない。
多分それをなんとかしようとして、そゆシステム論者が「あえて」弱者視点を足して配慮を見せるというトコ(バームクーヘン化)が、学際では新しくもありウソ臭くもあり=過去の賢者達への過剰配慮(記述的意思決定論=自己利益優先id:hizzz:20040516#p4)しつつポジション強化、ってことかなー。
快楽主義とか無頼派とかのシニシズムもひっくるめて解った風を装いながら、システムは道徳(美学=ロマン)コントロールが必要だというシステム強化論は、殆ど宗教の論理なんでは。そのシステム論で主体はバームクーヘンされていつも隠されてるメタを裁定する自己は、強烈なエリート意識(特別なアタシ=主体)と表裏一体であること、そういう共犯性ってのに自覚的でないと、かなりヤバイ。<まなざしの問題id:hizzz:20040411
政治(システム)を美学(文化)化するファシズムだろーが美学を政治化するマルクス主義だろーが、20世紀の歴史が証明した通り、シニカル&ロマンのハテは、全体主義への道なんだもん。