〈少女〉

〈少女〉という〈個〉を支える思想が成立したのは、かっての稚児の流れをくむ〈少年〉の無垢・美観・魅力が少女にシフトし、女性人格が想定されはじめた大正半ばでであるとし、その要は「自由と高慢(誇り)」への願望(自己愛)であるとし、それを「少女型意識」と著者は名付けた。「少女型意識」が生成する自己愛とは、獲得への欲望の否定と変身願望の肯定である。
野溝七生子『山梔』の主人公は、「意識はいかなる形態でもとることができ、何にでもなれるという感覚、自己が多様でありうるという感覚、それが外部から固定されず、自在に選択できるという感覚、また次に自己であるかさえ予測出来ないという感覚、これらを抑えずにいられる状態」をもってして自由というカタチで自己意識とその多様性は発見される。しかし現実のシステム(明示的国家/家制度、〈男〉社会)はただ一つの主体自己にそれを担わせようとする。それを精神の貴族性=高慢をもってして「女性ジェンダー」を撥ね付けようとする物語である。
そうやって自己を意識した〈少女〉が家制度をとびだし街に出て性交・妊娠という生理・身体性を帯びたとき少女貴族精神はどうなるのか、性交において〈女〉を引受けどもジェンダー(性的役割)意識/精神においては〈女〉を拒否する状態→両性具有性への通路を保持することによって得る意識上の自由といったことが模索された戦前。
戦後、民主主義によって建前的でも〈個〉の自由はともかくも保障されたが自前で開拓せねばならない「自尊心」、それを「予め選ばれた存在」文化・経済資本豊かなそんな選民思想に支えられた優越・強者な精神エネルギー、貴族主義でいなした倉橋由美子森茉莉らの60年代。〈男〉性原理的精神主義が敗北した後、かわって出自/実存の絶対性は遠くにおいやられてひたすら「カワイイ」「オシャレ」な感性価値をおいた欲望の家父長制&階級保護に拠らない自己愛、しかし「決して勝てない戦い」とシニックになりつつも生き生きとした明るさ楽しさをひたすら追いかける80年代。
そして松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』は、マゾヒズムを肯定的に提示する。〈男〉的なもの(制度的恋愛関係)を一切排除した、〈個〉対〈個〉の行為としての「恋愛性愛」の探求がなされる。すなわち、主導権を相手に譲り渡すことによって得られる自己放棄の「無垢」。しかし本当の「無垢」など在りえない為、関係の中での「役割」として不意に出現する幻想にとどめおかれる。「主体であること」は、実のところ、欲望的で差別的であることであって、汚れをひきうけるべきことである。好き/嫌い/排除という他者への価値決定&選別という一方的意味づけは、決定者=主導権保持者としての道徳的劣等性を覚悟しなければならない。それは生臭く「無垢」から遠い。それを、どこか意識関与しない「運命」的な自意識を越えた不可知の領域からの命令とその僕であるかのようなポジションをとり、決定主体責任を消し去る。それゆえ無垢であるために相手がすべての汚れを追わなければならない者の存在は、それに触れる者を傷つける。それこそが〈男〉ジェンダー獲得に拠らない自尊心、「少女体意識」の究極の自己像である。
大原まり子『ハイブリッド・チャイルド』は、SFという仕立てで意識拡大に拠る「身体変容」を描く。ここでは、かっての〈父〉/〈男〉社会支配からはすでに自律する強さを獲得し、世界の美しさを堪能する〈個〉の一回性の悦びにひたるが、それを阻害する〈母〉性=成人女性的なもの=生の連続(ワン・オブ・ゼム)への嫌悪/葛藤が示され、身体的全能(オンリー・ワン)が図られる。
60〜70年代の自尊心闘争をへて自信を獲得した〈少女〉は、他者に惹かれることを隠さず、あとはどうやって他者に支配されることなく、精神&身体的自由を保持しつつ他者を得るのかという段階に達したのである。