欲望対象

ルサンチマンに満ちた権力欲望が自己に「濁り」を与えそれに耐えきれなくなると〈少女〉に浄化をもとめ欠落感を埋める室生犀星『或る少女の死まで』では、非人格で清浄と救済の巫女としての〈少女〉礼賛により、自らの生なき自己肥大矛盾は隠蔽される。
珍しく〈少女〉との交渉を描いた稲垣足穂『菟』では、当初は〈少年〉を想定してたのを〈少女〉に変換したものだという。偽装されたそれを犀星の描く〈少女〉と比較していく。そこでは清浄と救済の無個性な巫女ではなく、未来の破滅の象徴となる個別な今ココの特別空間を断片的に形成する。また、気が付けばそばにいたおとなしい=「うさぎ」として獲得への苦悩や葛藤もない。それが〈少女〉であれ〈少年〉であれ、欲望の対象物としての役割しか求められない無意志・無気力・無力・無垢な非人格状態に留め置かれる。