文化的背景

少年愛」とは単なる性愛の分類上の名称ではなく、固有の背景によって当事者の意識・価値観・欲望を規定した文化を意味する。
明治以後、固有の欲望と意志をもち、他者と強豪し葛藤し、融合することのない、西洋近代の自己主張型「主体」に対し、日本の意識(精神)は強い嫌悪を感じてた。
「肉体を介さない恋愛」が共同体的規範を超越するものとして認識されるとき、その機能は宗教のそれに等しくなる。

西欧列強に対抗しようとするとき国民的主体形成は欠かせないし、現実としてその獲得欲望を放棄することはできない。だとすれば何らかの客体的「無垢」により、多数の「主体」の「汚れ」を払拭したいという発想が現れても不思議はない。そしてそれは『軍人勅諭』というシステムとして姿をあらわす。
…そこでは清浄の原点、世俗を越える特異点としての少年=天皇だけが唯一の完全客体である。
…念者たち=軍人はその「誠心」という愛を少年=天皇にいだく限りにおいて主体を持つことを許される。獲得欲望を抱く主体はそのままでは「汚い」。だが、天皇の無垢に仕える軍人の場合ならば、自身がいだく様々な獲得欲望によって当人がいかに「汚れ」てもかまわない。主体性のゼロ状態が少年=天皇の客体性という「無垢」によって絶えず確保されているからである。

軍人勅諭』は、天皇を〈善悪の彼岸〉にある「神」と考え、論理的・論理的正誤を判断してはならないこと、善悪や利害の判断を一切停止してただただ畏み敬うだけの対象として考えるべきと諭す。
そして、天皇と軍人の関係は「自他の区別のない無葛藤な志高の関係」のような愛と至福に満ちた体裁であり、飽くまでも論理ではなく清らかさと陶酔による支配であり、その「清らかさ」は、中心にある者が主体をあらわにしない限りにおいて保たれるが、中心者が命令者に転じた瞬間、瓦解する、と述べる。
もっともそれは、院政政治がシステム化した中世に成立したもので、生臭さ=政治から切離された純粋な権威・神聖の理想型としての「幼童天皇」にあるとし、さらにその時代の芸能の理想・理想的人物としての「稚児」ではないかと示唆する。
そうした性質から、主体的人格を持つ成人の指導者ではなく、嬰児のように受動的な、無垢かつ無力の神として待望される「無力な天皇」に対して、「絶対に無垢なる客体そのもの」であることを要求するシステムが、主体ナキまま稼働していく。→中心が無である天皇
〈少女〉とはモダニズムの別名であると『少女領域』の最後で著者は告げるが、「皇后」にはナゼカ一言も触れていないで終わっている。これはこの2冊の対をなす本にとっては大変惜しい点である。「天皇」とは違って、「皇后」というカタチそのものが近代に「天皇」の対として作り出された、〈少女〉の実現型〈乙女〉なるもの総体であるからだ。
若桑みどり『皇后の肖像―昭憲皇太后の表象と女性の国民化』川村邦光『オトメの行方―近代女性の表象と闘い』