戦闘美少女

さらに著者は歩を進める。斎藤環『戦闘美少女の精神分析』は、晩年三島天皇論と思想的裏付けのない相似であると看破する。
戦闘美少女の持つ、「無垢と攻撃性」は、中世の僧院において観音の化身として僧たちが崇めつつ犯す存在であった稚児と等しい役割をになうものであると。そう、日本の仏教美術の大半はヲタ的エロそのものなんですよね〜。
戦後日本の米国式恋愛様式の浸透・強迫によって、男性の〈少女〉を獲得し同一化する志向は排斥された。谷崎、川端、乱歩といった「自由と高慢」を求める〈少女〉意識を共有するような大正期に自己愛を育みえた〈少年〉は既になく、今あるのは「男性の幼児」が「未熟な青年」かのどちらかである。そうすると男性は自らの意識だけでは「自由と高慢な〈少年〉」を発見することができない。彼らにとって〈少年〉とは惨めで半人前の見たくない自己でしかないからである。だめぽ。。。
そうして自意識が排除されたからこそ、「自由と高慢」を独占してる〈少女〉獲得願望に彩られた〈男〉意識が、今むしろ拡大していると述べる。う、う〜む。このことが今日の「モテない問題」「ひきこもり問題」などが青年(大きいお友達?)アイデンティティ上の大きな比重を占める要因となるのであろうか?
産む性である〈母〉の対極にある〈少年〉に価値あるものを見いだすのは、「悪しき〈母〉」というのを意識してる者でないと無理であると、著者は結論づける。