自己主張

そゆ村的お作法が身体化していると、マイノリティの違いを見て「ぱど厨」のような「いじめ」コンフリクトはおこりがちだし、ど〜んな内容をいったとて、論争=人格批判になるわ、論争そのものの内容よりも論争の土俵に上がる為のお手続きの前提が大問題となる。匿名性を毛嫌いして氏名/性別/年齢/職業経歴を明らかにせい=どのハイコンテキストの序列のどこいら辺で認知されてる者か?をさぐるのが、コミュニケーション解読手段の第一義となる。「素人が安易な批判をするな」というのも、そのような意識が前提としてあるから、「素人」という意見者への人格評価づけが、内容の吟味よりも優位理論となるのである。
その意識が強いと話法として論理を駆使してても、id:hizzz:20040911#p3の方法論的動機が自己=〈個〉にないままで、論理立脚によるアイデンティティを得るのが目的となっている「オレを認めろ」=淋しいオレ様という状態になる。中年以降になると「指示語」が多くなったり、ね(^^;。会話動機自体がそんなだから、ことさら呼応相手に謙譲の美徳を発揮して過重配慮する為(それが承認してるよという相手へのシグナル=陰喩作法となる)に「断定」をさける話法になる。なにを謙譲してるのかといえば、発話内容と〈個〉に隔たりをもうけて責任を避ける為だ。所謂「重たいハナシ」として敬遠されがちなのは「論理的内容」を含む。先に書いた通り、「我を認証してもらう」為には、初対面の相手に「重たいハナシ」をふっかけるのは「礼儀」に反する無礼行為と慣習的にされてきた。親しき仲といっても、満員電車でのふるまいのごとく、そうして他者への領海侵犯を微妙に避け存在を消しつつ、自発的に消したからこそ自己存在を他者依存で立ち位置をキープするそれを保持すること=互譲性コミュニケーションによる繋がりが、他者との会話の第二の目的となる。
第一に「謙譲」して相手のことを全面的に受け入れることで自己を消す、第二に消した自己を先に「謙譲」というカタチで承認した相手に自己を受け入れてもらう。こういう双方向の流れがあってはじめて、相互承認の互譲性コミュニケーションは、互いの(言葉になっていない)真の意図を達成する。
しかし腹のさぐりあいのシンドイ話法に同調しつづけるのも大変で、うっかりコードをはずれたり、はずされたり(いじめ)してしまう疑心暗鬼な地雷状態に耐えられず、かといって「唯一の我」になっては、淋しすぎてコジレてしまうこともある。
そぉんなことに最強の日本語話法は、「官僚答弁」だったりする(苦笑)。アレは確かに「オレを認めろ」アイデンティティはないが自己の意見もない。ひたすら属するハイコンテキストの意見だけがある。そのハイコンテキストの意見と自己をびったり同調させつつ、絶対しっぽをつかませないような立ち位置バリアでくるんでるトコが、いかに波風たてずに文意を納得させるか、一番やっかいな人格批判を退けるのに最強なんである。