論理言語外思考

論理言語を持たない人間は思考や論理ナイのかといえば、そんなことはない。アカデミックな学問がすべからく言語思考記述を普遍としその訓練が学問基礎となってるから、それを習得してない者が非論理的にみえるという違いではないだろうか。
しかし学問体系でもスポーツや芸術といった実技色濃い分野は、学問としては論理が言語記述されてはいるが、そういった分野は論理を示すことがその実技の目的ではない。例えば全ての芸術家が自己の行為過程を、黄金比やマンセル番号による色調計算を使って製作してるとは思えない。そういのは「直感」という感覚で思考ではないという説が一般的であるが、はたしてそうなんだろうか。
ある感覚がひらめいたとて、その感覚をなにがしかの認識&行動基準におとし実行する為には、それなりの論理思考が働いているだろう。こないだのオリンピックなど見ていると、スポーツで昔ながらの「根性」理念体育会系主義では、0.00を争う世界ではいまや成果を出せない。最近のスポーツトレーニングには機能重視したコーチングがかなり取り入れられている。(日本選手の明暗が別れたところに、日本人ウケするナニワ節的主張の強いトコ(長嶋ジャパンレスリング父娘等)が総じていまいちの結果であったというのは、興味深い現象だった。)文学/芸術でも「激情のおもむくままに…」的常套句がるが、実際問題、作者が感情におぼれてたら演奏出来ないし、作品に纏まらないであろう。芸術/スポーツにかぎらず、所謂、プロという人たちは、当人が論理言語を駆使するしないにかかわらず、そうした実務作業工程において何らかの論理構築をなしとげてるからこそ、手掛けるコトやモノが一定の水準を保ち、それが故に評価物となるのではないか。じつは、そういう言語思考しない思考方法のほうが、一般的ではないだろうか。