中世

身体を把握するってことは、なによりも生命をコントロールするってことに他ならないのではないだろうか。人間が他の生命現象=生物とは違う!と大きな声で言い張る西洋思想を始めとして、そうした「生命をコントロールする自我」を持つ=文化文明それこそが、人間である証とまでアイデンティファイされる。「不思議ちゃんとオレ様」でカキコした通り、明治に入って日本はその思想をデフォルトにしようとした。日本近代文学は、そうした問題に取りつかれ、身体生理から自我を立脚させる=文明制度化するときに引裂かれるアレコレを、「私小説」というカタチで延々展開してったりした。そしてその最終形態が「軍隊的身体」に結実したりした。近代美術は3次元的身体技法と主題いうのを体得に苦闘をした。
さて、明治以前はどーだったかというと、「花鳥風月」の制度美と、オニババの元「山姥」的な姥捨て世界 『猶山節考』*1に分化される。実はその山姥は、「山姥と天狗」という形で祭られる能の演目にもなってる通り、「清め」「忌み」という行為はすべからく儀式化されて祭られることになる。
先に、「ココロ」=脳を中心にして作り上げられた入出力情報と書いたとおり、儀式/様式化はそれである。だから中世は、儀式/様式化された(貴族/武士)社会とそれ以外の身体共同体=部落の2つに分裂し、お互いがお互いを排除してその排除具合で成立ってた世界といえるんぢゃあないのかな。
id:kmiura:20050111#cで頂いたコメントで連想したのは、実はきだみのる*2の以下の文章だった。

-人間は肉体と精神から成っている。-この二つの持物のうち人間の根源になっているのは何か。それは明らかに精神だ。精神は嘘をつき易く出来ている上に、真実かか嘘か解りもせぬことを真実だと思い込むことも得て有りがちである。この精神のおかげで人間がどのくらい迷惑しているかは歴史を見れば瞭然だることだ。野心、欲、嫉み、党派その他、例えば戦争のような悪を生むのも、この精神という亜倶舎の所為に外ならない。今日のような精神がなかったら、人間はそんな禍いから逃れていた筈である。
どうして精神はこんな歪んだものになったのか。それは精神を恰も肉体の主人公のようにとうとび考える慣わしに依って起こったことだ。考えて見るとよい。精神が肉体に対する主人公ぶりがどんなものか。どの暴王にもにも劣らないくらい暴力的である。肉体を殺すことさえためらわないのだ。また肉体の些細な要求にも一つ一つうるさい口を出して、肉体の求めるものは何でも悪だと極印を押して禁じて来ている。それ肉欲は堕落の縁でござる。食欲は慎め、酒は悪であるなどと。
だが考えても見るがよい。肉体は一体何を望んでいるのか。食って働いて、愛し、性交し、子孫を作り、眠り、最後には滅びるだけだ。何にも他人にも迷惑を及ぼすことはない。ごく平和的なものだ。

きだみのる『気違い部落周遊紀行』大観和尚の手記

だいだい、人間以外の生物には、生態現象として「老人」という概念はナイだろうしな。だから、動けなくなった者は「姥捨て」するということが起きるんだけどね。

*1:なんとしたことが、amasonではコレにヒットする本がナイ!ガ〜ン、ちょーショック

*2:ガーン2。またしてもamasonにはナイ!ちきしょうグレてやるぅ〜!