ユートピアな趣味生活

スーパーサイズ・ミー』を見ても、あれを反資本主義映画と見るのは社会思想主義者でしかない。そゆ生活をおくるのは、そゆ「趣味なヒト」としかみなされない。何故なら、単一ファーストフードという商品自体が、とっくに世の中では陳腐化しているからである。マクドナルドが真に商品力をもってたのは、80年代である。藤田田が失脚したのも『マクドナル化する社会』にマクドナルドの商品力は減退していたのである。だから、反資本主義の目玉として(落ち目の)マクドナルドを持ちだしてやり玉とする周回遅れな現代社会論陣営には、はぁ???ってカンジがぬぐえない。
戦前戦後を含めて日本では「飢えない」=「豊か」=ユートピアつーことをアコガレとしてやってきたid:hizzz:20040428#p3。そしてそれは達成された。達成されすぎて、後がなかった。豊かを満喫する趣味と生活(=自分のことばっかり考えてたい)が第一で、その為の「労働」ってことがダサいことになった人々を大量生産し、そゆ趣向=精神主義でいることを親や社会が全力でもってささえたのである。しかしその余剰を生みだし支える者(=労働力)は今急速に減ってきている(=高齢化)が、反対に余剰に生きる者(消費力)は増大(=高齢化+嫌労働な若者)している。そうすると、労働力の生みだす余剰の恩恵を受けつづけられる者とそうでない者とで、差がつく。たとえ精神主義を主張する者であっても、霞を食べて生き続ける者はいないから、いくら精神主義的労働の高い価値を強調しようとも、その源は、他者の労働の余剰に依って支えられた上のことに変わりはない。勝ち組/負け組という二分法を使うとするなら、需要と供給のアンバランスな所であろう。そしてそれは趣味と生活の牙城、サブカルに於いてもいえることだ。Do it Yourselfだった筈のサブカルチャーは、サブカルという1ジャンルになるにつれて、生産と消費の二分化が起こり、生産を消費しつくすという現象が表面化したid:hizzz:20040109。
かくして「労働」を至上価値としてしまった社会思想系には、その誕生時からハゲシイ自己矛盾をかかえてる。マルクスも含め19世紀的社会思想成立の基盤(=ブルジョワジー)は、そういう「労働搾取」の上に成立した文化資本だからだ。そしてその矛盾はその思想を信条とするかぎり、拡大する。それは学問とて例外ではない。「学歴」という形で人の付加価値=商品化されたのである。一転して、市場の要請する昨今の大学の独立行政法人化への批判で、「学問の自由空間」的場の論理を展開する者は、どゆ論調をたどろうとも所詮、その依って立つ自らの「特権」価値=既得権益(文化+経済資本+権威)をふりまわしていることに他ならない。企業は淘汰されても、大学は淘汰されては困るらしい。しかし、大学=学問だっていう無謬性が、そもそも変なんですけどー。かっての「大学解体!」つーのは、一体全体、どーなったんでせうか?