資本裕福層の罪滅ぼし

どーも、「反資本主義!」とデカいフロシキぶちあげてるひとの中には、実は親にマンション買ってもらってたり、生活費はもとより、大学在籍満期+大学院などの授業料を親に負担してもらってたりという親族資本注入充実組(文化資本+社会資本+経済資本)な高学歴層が結構多いつー。口をひらけば「反資本!」なんだけど、やってることは結構、金や物に異常な執着を示す資本主義的スノッピー全開生活そのものだったりもする。それでなおも悪いこと?に、どなたも理想主義者なんである。いや建前ダケかもしれんが、少なくとも他者には「理想主義」を表現してやまない方々でもある。そして「理想」を表現すれども、プラグマチックにそれを現実に落し込む作業は、何故かやらない。どーも、そゆ作業=労働すら、自己の理想から離れるらしくて、むしろ毛嫌いしてる観すらある。
理想を追求しつつも実績ナイそんな自己矛盾生活ばっかしてたらコジレるしかないぢゃん。と、ワタクシいつもそゆ生態を目の当たりにすると想うのである。そして案の定、コジレてく。コジレる度に浮世バナレしてく。「おかしいのは世の中で、コジレる自己は正」とそんな自己を肯定して、正気?(=自己存在の可能性)を保つ。はぁぁ。ワタクシはそんなこんなな生態は、19世紀のブルジョワと現在のぷちセレブな「おいしい生活」とドコがドーちがうのかと、小一時間。。。
いやだから(信条とする思想には間違いない正統なものであるが)そおんな自分に良心の呵責があって葛藤してるという個々の心情の違いなら、それはもう、「文学」に、ほかならない。なおも「いやこれは社会運動なんだ!」と頑強にいいはる向きには、幸先に社会正義とかの「理想」を言っとくか言わないかのバリア=エクスキューズの違いでしかないそれは、「表現」の問題でしかないと。
でー、そんな大ブロシキなバリア思想を他者に立てとかんとどーにもならない、しかもそれでもコジレるのにそこに縋るしかないというフリをしなければならない脆弱な〈個〉って、一体なんなんだろうって、考えるんだけど。。。