集団(共産)主義と〈個〉

「連帯」「団結」という集団主義と、フォーディズム(大量生産)は19世紀の双子の思想でしかない。なのに、フォーディズム&ポストフォーディズムを批判する側(社会思想)の根本に、集団主義っきゃプロトコルがナイってことが一番の原因。なのになおもそうしたところに「可能性を模索」する*1というのが、そうしたリベラル派の論調である。そゆ説は、個人の勝手である。だから、「模索する」それはもうはや心情であって「文学」である。社会は模索なんかしない。いろんな結果総体として追尾認識されるダケだ。
思想はさておき、現在の趣味と生活を模索する大半の者は、なによりもそうした思想社会の押付ける〈個〉をコントロールしようとする集団主義に反発して、学校や会社や家庭からドロップアウトしたり「自分さがし」に奔走するのではないか。大体、「フリーター」等既存コースからのドロップアウト組を労働問題として捉え直すんなら、今までの労働運動は一体全体ナニをやってたんだ?リストラの風吹きまくる中で、あれだけ団結&連帯を声高に叫んだ連中のあの膨大な組合資金と組織の無能ってことを、ナゼ問わないのか不思議でならん。そゆことを全部スルーした中で、ポストフォーディズムがどーたらこーたらといって、やっぱりマルクス的労働観は正しかったと旧左翼ヲヤヂのちょうちんを持たせるようなコト(68年革命)にご奉仕しまくるタコ壷言論運動は果して社会運動といえるのか、と小一時間。。。
そゆところを周回していると、「フリーター」「ニート」「ひきこもり」などという、集団(共産)主義をドロップアウトする〈個〉の問題は、解けないどころか、むしろそこに隠された階級差を自説の立ち位置の為に積極的に隠蔽することにもなっているのではないだろうか。


社会主義的リアリズムがすべてハゲ落ちたヌルい心情を至上のものとしてしまった形骸化した「運動」とやらが、労働余剰がない社会故に、受入られなくて先ボソリになるのは、当然の成り行きなんでないかな?