武士の形骸化

以降、朱子学を含めて漢籍が武士のアイデンティティの為の基礎教養となる。そうして元々サバイバルの為の殺戮技能は、実力行使を封じられて武芸になり、後には武士道と転ずる。
こうして武士は血なまぐさい肉体労働者から、知的支配階級へと変貌する。『宮本武蔵』のハナシが好まれるのも、殺戮用心棒が、そうした変化を遂げた「武芸者」としてだろう*1
それ以降、武士たる「居ずまい」ゴッコというか、作法=お手続き社会と幕府はなる。そして武装解除な武士は、お手続きと儀式に明け暮れるのがシゴトとなる官僚と化す。
そういやー、赤穂浪士で悪役の吉良家とは、源氏に繋がる「格」の高い家柄なのである。したから、儀式典例などを司り、幕府の中でイバってて赤穂の田舎者の粗相を公然とバカに出来た。それに対抗する為には、より難易度高い「居ずまい」=「体面」手続きを実行することが求められたからこそ、あんな仰々しい討入切腹となるんだよなぁ。身分、序列とはそういうことなのである。
江戸は建前としては封建制なのであるが、個々の武士と自己領地の結びつきは限りなく弱い。藩に石高を支給してもらって、自分で直接領地管理運営なんかしないのが大半。土地権利だけを有する。だから、藩がコケたら、簡単に皆コケた。

*1:究極の「無私」ということが奨励されるが、これは次の動作を相手に感知させない=自分の動きを読まれない優位性という実践上の極意と共に、みだりに刃をむかない=能在る鷹は爪を隠す自己コントロールに拠る武力封殺という両義性を持つのであろう。実際、本当に実践を制するのは、居丈高に威圧感のある者ではなく、ギアチェンジするかのように見事に自己存在感の大小をあやつる者である。いかにして存在感を出して威嚇するかではなく、いかにして存在感を消して自由自在になるかがポイントとなる。そうした身体鍛練コントロールに魅せられた時、それは理想自己規範と変化するのであろう。