2.「公」「私」+「個」

ところで、伝統的な「公」「私」という2項以外に、そこに潜在的に含まれていた「個」(対他的コミュニケーションの契機)という第3項が、それとして析出されてくるようになったのには、やはり時代的背景が感じられマス。「公」(地位や役割の体系)が自明で安定していた頃(19世紀のブルジョワ社会?)は、「個」の契機は「公」のうちに埋め込まれたままであり(両者の一致が想定され)、また消費社会の進展によって、欲望や趣味という意味での「私」が強まってくると、「個」の契機は逆に「私」の方に従属することが期待されたのだけれど(宮台真司がかつて「ブルセラ少女」に見ようとしたのもそういうことか?)、しかし実際には、「私」の方も不安定になっただけだったのではないか。その結果、脆弱であるが故に承認欲求が肥大化した「私」が、エヴァのシンジ君よろしく、「公」の領域で丸ごとの全人格的な承認を求めたり、もしくは、不安定で非自明化したためにセキュリティだけを求めるようになった「公」が、そのような「私」の脆弱化に危険性を嗅ぎつけ、それを排除したり過剰に管理するようになってしまった(長田百合子のような「引きこもり引き出し人」などは、その典型だと思いますが)。このような「公」と「私」の間の境界侵犯や、両者の関係の非自明化を前にして、「公」と「私」の間の適切な関係を再構築するものとして召喚されたのが、「個」というものだったのでしょう。その「個」という次元には、対他的コミュニケーションを通じて、両者の間の適切な関係を模索していくのみならず、さらには、不安定化した「私」や曖昧になった「公」をも対他的コミュニケーション(のみ)によって再構築していくことまで、現代では求められていると思いますヨ。このように、あらゆるものを対他的コミュニケーションによって調達するしかなくなったのが、時代の趨勢なのでしょうネ(近代の徹底化=高度化ということか?)。そこで自分は疑問に思ってしまうのですが、「個」という次元は、適切な「私」や「公」のあり方、もしくは両者の関係を立ち上げる際に、いったい何をよりどころとすればいいのでしょうか? もちろん、その都度他者たちとコミュニケーションを取りながら試行錯誤的に立ち上げていくしかないわけですが、その試行錯誤が迷路に入らないためにも、単なる機能性や合理性を超えた、主導的な理念や規範が必要になると思いマス。吉本隆明の「対幻想」という概念を持ち出してくるまでもなく、実は対他的コミュニケーションの領域こそ、この「私」を全的に支えてくれる/もしくは、全的に否定してくる(「all or nothing」)ものをめぐる幻想=妄想が跋扈するところであるわけですからネ。自分的には、ギデンズの言う「嗜癖的な(共依存的な)関係性/純粋な(相互自立的な)関係性」という区別も、このことに深く関係していると思っていマス。現代人は、何も頼れるものがなくなってしまったからこそ、目の前の人間関係によって「私」を支えようとして、逆にそれに依存してしまう。しかし、それ以外に何か頼るべきものが他にあるわけではないから、その共依存化した関係を、相互信頼と相互契約からなるクールな自立した関係に改めるよう努めていくしかない。――彼はこのように主張するわけですが、そこで共依存的な関係を自立したそれに改める担い手が、まさに「個」というものになるわけですネ。彼のこの議論からは、その「個」が関わる対他的コミュニケーションの次元が現代では重要になったという点はわかりますが、しかし、コミュニケーションによって規制され、支えられるようになった「私」や「公」の適切なあり方に関しては、相変わらず何もわからないままデス。そして、くだんの「当事者主義」というものは、まさにこの問題に対していっきに答えを出そうとしたものなのではないでしょうか。それは、脆弱化・不安定化して「公」の監視管理に晒されるようになった「私」の、その脆弱性・不安定性そのものを、そういう抑圧的な「公」の覇権に対抗するために、そのままオルタな「公」の位置に持ち上げようとする。しかしそうすると、hizzzさんが懸念したように「〈私〉=〈公〉」という短絡が生じてしまうから、脆弱な「私」の表現によって戦術的に「公」に抵抗することと、ただ肥大化した「私」の承認欲求を「公」の領域に垂れ流してコミュニケーションを歪めてしまうこととを区別していく必要が出てくると思いマス。結局、このことを行う役割を引き受け、「私」の表現をただの表出ではなく戦術的なものに練り上げていくのも、他者と関わる「個」の次元でしかないのではないでしょうか。そうすると当事者主義もまた、その「個」の操作のよりどころ、その操作を主導するものはいったい何か、という問いに答えなければならないことになりマス。自分としては、「私」の脆弱性・不安定性をそのまま「公」の位置に持ち上げ、そのことによってオルタな公共性を構築していこうとする当事者主義の意図には賛成できますが、しかし、脆弱性・不安定性のそのような持ち上げを可能にして支える、何か別のものが存在しなければ、当事者主義が一つの「主義」と化して、まわりに戦術的に関わっていくことは中々難しいのではないか、とも感じていマス。