3.UTS

さて、やっと本題デス(笑)。UTSは「イデオロギーでパーティを語ったり、動員したり」して既成左翼と同じ轍を踏んでいるという、上野さんが反撥してやまない読みを誘発してしまったのは、ヤッパ、この本絶対に面白いとhizzzさんにヘンに煽ってしまった俺なのかナァ? 確かに同じ「抵抗」という言葉にこだわりつつも、特異であるが故に潜在的に普遍性を持った体験から、その深みに沈潜しつつ、あくまで内側から抵抗のための新たな生や社会のかたちを模索していくというスタンスと、階級闘争という枠組をあらかじめ前提として、単に外側から、闘争にふさわしい抵抗する階級はどこにいるのかと勝手に探したり、オマエラきちんと抵抗しろ!と説教するようなスタンスとは、明らかに似て非なるものですネ。後者は多くの場合、搾取されているとされた階級の苦しみを一方的に表象代行しようとしたり、闘う意識を強引に外部注入していく、硬直した身振りを繰り返すだけなのがオチなんだよナ。いわんやまた、「社会について全体的に語る」視点をあらかじめ確保して、社会の最先端の状態なるものにあくまで強迫的についていこうとするスタンスとも、「社会はこうなったら、きっと生きやすいだろうねえ」ということを原理的に考えていく身振りは無縁ですネ(自分としてはここに、社会学的な思考と社会思想史的な思考との間の齟齬を見て取りたくなりますが)。そういう、「今の社会はどうしてこのようになっているのか」ということしか眼中ない思考に対しては、「オマエはただの現在にしか過ぎない!」(レーニン)という一喝をただくれてやればいいんですヨ。
敢えてここで宇野派的な<原理論/段階論/現状分析論>という古典的な区別を持ち出して言うと、現在では、「革命はいつになったらやってくるんだ?」という視点からしか相変わらず物事を見ることができない既成左翼の<段階論>や、もっぱら「世の中の最先端は今どこにある?」という視点からしか現実を捉えることができない社会学ヲタの<現状分析論>ばかりが跋扈して、生や社会の別のあり方をめぐる経験の高みや深みから、より望ましい生や社会の姿について思考していく肝心の<原理論>が欠けているわけですよネ(自分としては、柄谷行人のNAMをめぐる議論にもそのような思考の次元の欠如が感じられましたが)。それだから、こういう状況下で敢えて原理的に考えようとする上野さんがいら立つのも無理はないと思いマス。