4.死屍累々

しかしそうは言っても、「北田さんの本や鈴木さんの本と比較してはいけません」などと言って性急に切り捨ててしまったのには、正直言って自分も引いてしまいますた…。彼らとのスタンスの違いをはっきりさせるためにもどんどん比較していくべきだと思うし、それからやはり、自分としても、「コジレ」たり「ヘタレ」たりした「死屍累々」状態の人々の存在は無視できないですネ。そのような人々は、上で述べたような、自我が脆弱になって「生きがたさ」を抱えるようになった、いわゆる「メンヘル系」の者たちであると言うことができますが(同じ「メンヘル系」と言っても、その出自や特徴は色々あるので、簡単に一括りにすることはできませんが、取り敢えず「死屍累々」の類語だと思って下さい)、この種の人間たちもサイケ・トランス系のパーティにはかなり来ていたと思いマス。もちろん、対抗グローバル的な「世界の愚連隊」とつながってしまえば、メンヘル系などという属性はもはや関係ないのかも知れませんが、しかし、彼/女たちは、社会に対して不適応を感じながらも、そこからドロップ・アウトしたり、それに対抗するためのいかなるスタンスやスタイルも得られずに、言わば社会によって潰されたまま、そこに再適応を強いられるという大きな困難を抱えていマス。自分としては、この困難を解決するための手がかりが、日常に非日常を対置するだけのカウンター・カルチャー系のサイケデリック文化とは区別された、日常から少しだけ撤退して、その傍らにミニマルに非日常を実現させていく、現在のパーティ文化と結びついたサイケデリック文化の中にはあるはずだと、勝手に考えていたのですが…(もちろん、こういう考え方の起源は、鶴見済氏の『檻の中のダンス』あたりになるのでしょうが…)。それゆえ上野さんのUTSも、このような「死屍累々≒メンヘル系」がオルタな生の様式を創出してサバイバルしていくための<原理論>として読み解いていくことができると思っていたのですが…。
そして、このような読みをするためにも、UTSを、常に「現在」というものに呪縛された社会学的な、<現状分析論>と比較していくべきだと自分は考えていました。なぜなら現在、メンヘル系の人たちこそが格好の社会学的思考の餌食になりつつあると言えるからデス。或る者たちは、自我が脆弱化して人間的成長が困難になったのは、社会が「成熟化」した(「後期近代化」)以上当然であり、それゆえ、社会の側が彼/女たちの成長や社会とのつながりを確保し、支えていかなければならないと、お節介なオヤジのようなことを言い、また或る者たちは、現代人の自我が脆弱化したように見えるのは、社会全体の「心理学化」によって人々に対する管理が強化されたからであって、それゆえそれはマヌーバー、錯覚でしかなく、現代人も、昔からの「民衆」としてのたくましさを失っていないなどと、野蛮な体育会系のコーチのようなことを言っていマス(小沢牧子など)。このような社会学者たちの勝手な領有に対して、メンヘル系の人々が緩やかにスピリチュアルなものに関わって快楽を得、そのことによって抵抗していく、別の生や共同性のあり方を模索していくためにも、UTSの<原理論>的思考を敢えて社会学的<現状分析論>と対置させ、彼/女たちをその領有から奪還しつつ、UTSを、彼/女たち固有の、もしくは彼/女たちから始まる<原理論>として役立てていくべきだと思っていたのですが…。