5.思想のローカル展開

また、上野さんはジャパン・ローカルなことにこだわるのは好まないと思いますが、自分としては、この「死屍累々」化した人々は、明らかに「日本的ポストモダン」(椹木野衣的に言えば「日本という悪場所」)の閉塞と深く関わっていると考えていマス。日本は後発近代国家であるが故に、そこで西欧的な自我を確立しようとするとすぐに空転して病理化してしまう、という観点から一貫してエヴァを読み解こうとしたのが小谷真理の『エヴァ論』でしたが、どうも68年以降の日本の空間では、政治的・文化的にラジカルな姿勢が根付いて成熟することがなく、すぐに小児病化して挫折してしまうということを繰り返してきたように思えマス(オウムまで含めて)。ついでに言えば、リベラルな姿勢の方も、ユーロの社民勢力のように現実主義化して(いい意味でも悪い意味でも)老獪になることがなく、いつまでも、微温的で良心的な理想主義という自己イメージに囚われたままデス(鶴見俊輔久野収の仕事は、そんな次元を遥かに超えたものだと思うのですが、残念ながら彼らを後継する者がいません)。もちろん、政治的・文化的ラジカリズムの運動が挫折する原因には偶然的な側面が大きく、そこに地理的・文化的特殊性を持ち出してきて、ことさらに原因を必然化してしまうのは、一種の文化的ナショナリズムの身振りであり、反動的な勢力に加担したもの言いでしかないかも知れません。しかし、ラジカルな姿勢を追求することに対する挫折感や不信感は、70年代以降広く共有されてしまい、共有されたその意識のうえに、あの、対人恐怖やアパシーから始まり、ひきこもりやリスカにまで至る、(おもに中産階級の孤立化した)家庭の親子関係の歪みに潰されたまま、いかなる脱出口や闘う相手&仕方を見出せずに「非社会化」してコジれていくだけの、「メンヘル系」の生の様式の系譜が展開されてしまいました(ラジカリズムの挫折・不信意識の上に、80年代になって開花したサブ・カルチャーが築かれたことはよく指摘されますが、この点の方に関する体系的な指摘や分析は、寡聞にして知りません)。さらに、政治的・文化的ラジカリズムの追求に挫折して脱落した者たちも、そのようなメンヘル系の人々の群れの中に堕ちてきマス。このような人々を見ていると、元々メンヘルだったからこそ政治的・文化的ラジカリズムに性急にのめり込んでしまったのか、あるいはそれに挫折したからこそ初めてメンヘル化したのか、判らなくなってしまう程なのですが…(とは言っても、「メンヘル系」の人々とラジカリズム挫折組との緩やかな混淆は、ジャパン・ローカルと言うよりも、東京ローカル、いや中央線沿線ローカルな現象に過ぎないのかも知れませんが…)。