仮説

ワタクシ「AならばB」方式をシツコクmyはてなのあちこちでハタいてるid:hizzz:2005019が、それもこれも「A」という固定した観察把握と、それに脊髄反射的ワンパターンな「B」というひとつの仮説立証で、事象把握は事足りるとする姿勢はいかがなモンかとゆーてるのである。
予め確立されている「AならばB」という固定概念からはなれて、本当にそれは「A」なのか、それが「A」ということをカタチづくってる要素はなにかということをひとつひとつ丹念に観察収集すること、これが全ての「創造」や「学問」という思考の始まりである*1。この部分を疎かにしてその後いくら仮説を立てても、それだけで立証がなければ、平場=第三者の鑑賞/立証に耐えうるもの=普遍論理とはならない。方法論的動機が自己責任主体=土台にない〈表現〉*2というのもワタクシ批判したりするが、これは「AならばB」という方法論を自己回路内で観察→判断→仮説→立証してないで、既存をチョイスして消費して終わってる「思考停止」だからである。
一方通行な自己中タコ壷でも、カタチさえ出せば〈表現〉としてことたりるとするセンセエ様が、そこここで跋扈している。したから多くのそれは、いくら表面が整ってても一過性で一通り消費されれば終了となる。無論、初めからそゆ目的の基に計画されることもあるが、多くは「仮説を立てる」=〈表現〉することそのものダケが目的であるケースが多いから、知人友人間をひととおり巡ったら一過性消費で終了という結果は、目的に合致しており、別に失敗でもなんでもないのである。その先の計画が立てられてないと立証も成らず、その先はいつも未確定である。

*1:表現系のハナシをすると、文系で必ず引用されまくりのベンヤミン、このひとだって色んな夢や幻想の断片を観察収集してるしぃ。@パサージュ論

*2:作品/論考などの、恣意的成果物であるモノやコト全てを指す