立証

観察→判断→仮説→立証というのは、そこでうまくいかなければ、また元の観察繰り返しなのである。しかし上でもカキコしたように、これが出来ない人が、いやぁ実に多い。欠点を指摘されると、「アタシという多様性が否定された」的な逆ギレ社会批判やコジレ悲観でモンモンと萌えてる人もよく見かける。な、なんだかなー。困ったことに結構真面目なひとにこの傾向が強い。そんなに全身全霊をかけてアイデンティファイする位のものなら、もっと丁寧に手間ひまかければいーのに、キアイいれるポイントが間違ってるか、そもそも立証対象として選出したターゲット/場が悪かったかどちらかである。
どこのどの部分がダメなのか徹底検証をしないまま、あれがダメならコレと別の可能性にとっかえても、また同じ失敗に終わるということが多い。そゆのは、学業を極めた筈の人でも多々見かけるが、そんなのの積み重ねをいくらしててもそれは単なる仮説ショッピング=消費行動、よくて?専門バカでしかない。そゆ失敗を単にリセット/なかったコトにするのみでは後に活かせる経験は溜まらず、バラバラのパーツ経験だけがあるままで、ひとつとして立証につながらない。そんなのは、論理的でも、サイエンシフィックでも、ましてやクリエイティブですらない。
なぜそうなるのか。それは、やり方を知らないか、経験不足だからである。学校教育では問題に対する回答は、予め用意されている幾つかの中から「唯一解」を選択すればよいのであって、予定調和なそのスキルに特化した人が、最高学位まで上り詰める生活。ところが、「創造」に限らず世の中でのシゴトというのは、未確定な中のさまざまな事象から可能性を検討しつつ場面場面に合致した「最適解」に向けた仮説とその立証をしなければならない。そういう思考の切り替えが必要なのである。小柴昌俊のいう「受動的能力」と「能動的能力」の掛け合わせである。>id:hizzz:20040516#1 「能動的能力」は「論=アイディアを動かす力」といえよう。