方法論の硬直

わからんといえば、当日の「自由と生存のメーデー 06 ---プレカリアートの企みのために 」の集会・討論と言うの、肝心の内容公開されてない。労働疎外がサウンドデモでナニを訴えたいのか、とーとつすぎて門外漢はさっぱりわからんちん。表現の自由は分かるけど、その表現がナンでサウンドデモでなければならないのか、表現の多様性の中でどーしてサウンドデモに固守するのか、その間を埋める言葉がなかったら、そりゃ門外漢にはサンウドデモ=煩い/じゃまとなってカミ合わない。
デモ決行前からいくつかの箇所でデモを呼びかける書込みが積極的になされたりしたのだが、賛同意見を自分の言葉に直して書込みするというよりも、「統一声明」的な識者コピペ(プロパガンダ)を繰り返す方が多いように見受けられる。抗議意見でも同様。マルチポストはネットでは歓迎されない。無論「ブサヨプロ市民」ということで粘着嫌悪なウンコを投げかける者も多数いるが、それらを「ネット右翼」としてひとまとめにして「統一声明」の中に籠ってしまうのはどうか、頭カタすぎ。原理硬直して、多様性に欠ける。こうした労働疎外と反戦を結び付ける反戦運動という文学的な大文字観念ばかりが先に来て、日常自己の労働疎外を解消する具体的テクニカルスキルが情報としてまったく提示されてない主催「労組運動」サイトやシンパの閉じた姿勢(興味ある/賛同するなら、まず参加/入会ありき)は、逆に反戦思想運動に利用される我等フリーター&ニートという分断をネット上で生み出したということはないであろうか。
反感ウンコを利用して、どんどこいろんな表現方法を考えてプレゼンしてコミュニケートしていくとことはしないのだろうか。どこか余所の世界の識者の意見をコピペしまくることではなく、トライ&エラー、そゆ地道な実践を重ねていくことからしか、地に足のついた有効な〈ことば〉は出ないし鍛えられないだろう。のに、「ネットは屑の巣窟」とか「スパイ疑惑(公安等「敵」に情報はわたさない)」とかいって閉じてしまって、異質意見がクロスする場を喪失して表現の場を固定しているのは、運動としていかがなものか。固定してるから補足もされやすい。補足されやすければ、囲い込みもまた容易であるね。で、それは同質の中で先鋭化するかもしれないが、それはジャーゴンすぎて異質への手がかりを排除することになるので、広がりをもたない。…Web2.0とかいってる時代に情報疎外してるのか、されてるのか、はたしてそれはどちらであろうか。
無論デモや集会はやりたい人がやれば良いし、その自由を担保する(「敵」や反対意見を表現する自由を尊重する)のが民主主義の大原則。が、かってのイラク反戦時4万人の盛り上がりをもう一度、という気持ち(&あせり)は分かるが、実践問題として4万人と100人程度でデモンストレーション(闘争方法)が同じというのは、ちょっと戦術としていかがなものかとおもう。ケーサツとガチンコしたい趣味者はともかく、自分で自分の首をシメているかのような戦闘は誰もシアワセにならないしなー。。。集団硬直してしまうより柔軟に拡散するゲリラ戦法のほうが、いまや有効でないかい?