モラルとルールの運用

う〜ん、どうしてそうなのかと考えるに、日本と他国はモラルの持ち様の違いがあるのではないだろうか。特に西欧諸国に於いては、ベースにキリスト教を始めとする1神教がモラルとして根づいている。モラルの成文化は聖典が受け持ってる。政教分離と共に、宗教にはナイ概念、主権在民を独立成文ルール化したってことかな。ところが、元来アメミズムな顔の見える忖度主義で小さな個人主義がよりかたまった日本ではid:hizzz:20060921#p2、モラルは「人を慮る」関係性の中に空気のように曖昧なカタチでセマンティクにあって、其の都度変化する。そこへ頭上よりふってきたスタティクに固められた成文法は、即共通モラルとなって全体をくくろうとするのに対して、本来それに対等対峙してしかるべきであるセマンティクな個々意思表示を常に必要とする民主主義という方法は、「人を慮る」忖度主義とは対立しストレスを生む。そこで憲法=神聖不可浸で聖域化して奉っとくことによって、ごちゃごちゃ考えずにスタティクに現状維持ということにすれば、個々は意志を詮索されなくて主体ヌキで楽ちん「法律が護ってくれてるから」=御札という意識が強いからなのだろう。
後、中国の序言で見られる朗々たる革命正史、正統性への修辞は、昨今の教育基本法で与党内でボツになった中曽根@大勲位が書いた前文をおもいだしたのだが、とかくそうしたものをルール文におりこめたいという「美辞麗句」野望、これは政治思想の右左というよりも漢籍素養がモラルにある賜物なのだろう。それと、かって89年代初めに「写楽」編集部が「美しい憲法を読みましょう」と桜や富士山のカラー写真と教科書風に組み合わされた憲法全文の本『日本国憲法―ピースブック』が出てブームとなったように、正統=折り目正しさへの敬意ヒエラルキーは、一度設定された国家の根幹文章を後から改変するというフレキシブルな思考を阻むのことともなる。