情緒関係と自己存在

しかし、いっくらそういってもそうそう他人に一族郎党の命かけてなんかやってらんない。結局はこの関係のままでは食っていけないので、幕府が崩壊したのは歴史的事実。其処まで行く前に、激しい自己矛盾をかかえるというのはどういうことかというと、「義理」と「人情」の葛藤という手垢のついたドラマ主題でおなじみのそれである。自己の在り様が自他共に確定できえない者(主君の指示ない単独状態)=大政奉還後の薩長以外の主君を喪失してた侍は、急変する状況下、斜陽化していく藩(故郷)&自己身分立場と一族郎党の生活というその2つの価値観の中で苦悩する。そのこと自体に自己存在を見出すというヤヤコシイ自己愛を発揮する人間臭いオレ様は、現代でもよ〜く見かける。
どうしていいかわからない現状維持を取り急ぎ自己肯定する為に、分析や提案や行為結果という整然とした論理ではなくあっちこっちにブレまくる「ふるまい」をもってして状況に(対峙しているのではなく)附き合う=仕えるというさまを最も貴ぶモラルとみたて、苦悩を媒介にして自己を通す*1。こうした理性でない情緒的ヒエラルキーの中でお互いに満足していれば問題はないのであるが、困ったことにヒエラルキー内での循環が起こりえないので、常に下部に不満が鬱積する。あとは、お決まりの不穏分子を黙らせるか排除、もしくは共通外敵をこさえてそこに反感情緒を集中させるかである。
あるヴァーチャルリアリティ(=思考世界)の「恒常的な立ち上がり」によってアクチュアリティ(実在感)が生じ、それがリアリティ(現実感)の生成を触発し、あるリアリティ(事例)に吸着して顕在化するさまを、木村敏は以下のようにいう。

バーチャルな感覚は、ヒトの集団行動に於いては集団全体の主体性に吸収されてしまうことになるような、個別主体性成立以前の基底層で感受されることになるのに違いない。これに対して感覚が「現にいま感じられている」というようなアクチュアルな現前意識は、無意識でヴァーチャルな「集団感覚」と、意識的に表象された「個体感覚」とのズレそのものとして成立し、しかもそのズレは、それが成立すると同時「主観的時間遡行」の機制によって実質的に消去される。いいかえればアクチュアルな現前意識は、成立するやいなや直ちに対象意識のリアリティによって覆い隠される。

木村敏関係としての自己

なにしろ最近の「市民派」となのる人々だって、問題についてのジャッジ基準に「共感できるか・否か」を公言してはばからない現状、このような行動様式に於いて、もうはや政治思想の保守革新・ウヨサヨの差はまったくない。

*1:どうしていいかわからないときは、とりあえずの現状維持が一番合理的ではあるのだが、それはつねに一時しのぎでしかない暫定解である。