勅諭&勅語の有効範囲

さて、また歴史にもどると、『葉隠』的なものもミックス*1された武士道を基として陸軍向けにこさえたのが、『軍人勅諭1878年
「忠節・礼儀・武勇・信義・質素を旨としてお国の為に身を粉にして玉砕していった立派な兵隊さんたちは、そんな酷いことなぞする筈もありませぬ」というのが、歴史修正派の大きな柱なのであろう。無論これに『教育勅語』もセットでつく。薩長の天下とはいえ人材不足。没落した士族だけではなく、「軍隊入れば銀シャリが食える」と農民町人をかきあつめて発足したてんでばらばらな出自思想身体をもつ連中をなにか高次のものでしばってひとつに纏めて集団化する必要がある。天皇と上官=薩長の指揮に従う根拠として「武士道」をリニューアルさせバーチャルリアリティとして提示し、没落士族には祖先の栄光を農民町民は武士たる栄誉を国家システムとして保障し軍隊というリアル集団身体を顕在化させるのが、『軍人勅諭』の目的であろう。
いやだからね、その「忠節・礼儀・武勇・信義」というのの目的と範囲が、天皇〜軍隊内でしかないハナシを外部にひろげたから、事が問題化したのである。その中身は天皇および上官に向かって「忠節・礼儀・武勇・信義」を尽くせというハナシしか説かれていない。と、いうことは、部下及び軍属&非戦闘員に対する軍としての規律意識は薄かったといってよいであろう*2。型を問われないことについては、無礼講なんである。
前線にとって不幸なことに、司令部は始終「兵站」を楽観視した作戦に始終した。多くの戦果は点の占拠にしかならず補給路確保出来得る線または面にならなかったという事実は、司馬遼ならずとも多くの事物が示す通りである*3。前線への本部からの支給は常に絶対数が不足しているか、途絶えてるかである。のこる手段は「現地調達」。敵国で戦ってる敵国人と日本軍票で必要充分なお買い物がお互い行儀よく行われたと考えるのには、そうとう無理がある。雲の子散らす荒野で、見た目同じなモンゴロイド同士疑心暗疑と恐怖心を耐えつつ食うや食わずでゲリラ戦を攻防してくたくたになった軍が、物やひとがあふれる都市をやっとこさ占領した時、それまでのつもりつもった軍隊生活の「うっぷん」を存分にぶつけ解消できる対象を見つけた時、自分でない誰かが先陣をきって暴走しはじめた時、そんな時、釣られるようにして一人ひとりが全能感による自己開放をあじわったのではないだろうか。「赤信号みんなでわたれば怖くない」「えじゃないか」「おどるアホならおどらにゃ損損」の集団暴走=個としての責任解除がそれに輪をかける。
で、南京事件をはじめとしていろいろな事件が五月雨式に起こったからこそ、1941年に『戦陣訓』が出される。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という文言が、硫黄島や沖縄での非戦闘員を巻き込んだ戦禍を残す一因となったとして有名であるが、これが出された狙いは「満州事変」以来の現場暴走乱脈と膠着状態を、本土陸軍司令の基に回復奮起させるのが主目的であった。いわば『葉隠』と同じ。
しかし具体的な悪行を書く訳にもいかず、その序文は「戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に促はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。」、また第一戦陣の戒には「敵及住民を軽侮するを止めよ。」ともある。
大体、戦争の始まりの盧溝橋事件そのものが、正式な本土司令の基におこなわれたのではなく現場の暴走という体たらくなんである。しかし「お国の御為によかれとおもって」という枕詞さえつけば、大抵の暴走当事者の主体的判断ミスは責任解除され言い訳が成立したのである*4。それが軍の統帥権というものであった。

*1:葉隠』そのものが世間=佐賀県外に知れ渡るのは、明治後期になってから。

*2:上官による新兵いじめの過酷さは、歴史修正派も含めて数多くの証言のある話である。

*3:「日本内地より一厘も金を出させないという方針の下に戦争せざるべからず。対露作戦の為には数師団にて十分なり。全支那を根拠として遺憾なくこれを利用せば二十年でも三十年でも戦争を継続することを得」石原莞爾

*4:二百三高地でおなじみの乃木将軍が偉大な軍賢人としてもてはやされたのも、大無能な指揮官としての結果でなく頑強な姿勢を滅私奉公というスタイルで一族をしたがえた家長としてつらぬき通したからにすぎない。でも乃木は苦悩していたんだというその表にあらわされなかった家長の苦悩をあれこれ勝手に慮り共感することから、新しい情緒ドラマが面々と続く。