有為必然な伝統創造

西洋vs東洋の次に自由主義vs共産・社会主義という国際社会の2項対立で世界を把握するのがグランド・セオリーとなっていた80年代に登場したベネディクト・アンダーソン想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 』は、「国民とはイメージとして心に描かれた想像*1の政治共同体である。」とし、その把握前提の基となる国民・国家思想が成立した「近代性」そのものにざっくりメスをいれてくれた本。それと3の編纂手法によって、大国・大政治&為政者達に相対してた数多の事象が掘り起こされ地域の相互作用が解明されてくるにつれて、一方通行だった大国間な歴史が立体化してくる。
と、いうわけで、国家総動員法での「総力戦」時代のハナシとしても、「特殊性」とか「狭義の…」的な全体整合性がない分離分断論説は、一見論を細密にしてるようで、どう細密化してもそれは部分でしか立脚しない局地では、全体論からは別もの=ファンタジーにしかならない。しかしその(論者に都合よく加工した)局地をもってして全体に還元したかのような論調をもって、「論破」したような雰囲気=空気を作ることにやたらせいを出す御仁が結構いる。「主張内容」よりも「オレ主張」=「立ち位置戦」ってやつ。いやもう前に旧日本軍の意思決定でもカキコした通り、人物人格主義=人的融和性を最優先した感情論は「ダメな議論」の典型なのだ。
「する(営為)より成る(自然)」という風に無為自然=無自覚を貴ぶ日本風土であるが、「創られた伝統=近代性」というお題はここ日本ではどうだったのか?という視点で、改めて所与のものとされていた制度・文化を検証・解題し直す(「脱構築」)と、「大国家政治思想」歴史で隠れていた数多が、出てくる、出てくる。日本人なら持ってる「武士道精神」なら、なんで丸暗記して復唱しまくんないといかんのだ?なんでビレッジバンガードのPOPに「これ1冊読めばよい」と三島『葉隠入門』を推奨されなきゃなんないんだ?いや、もー、「偶然ではありません。これすべて必然なのです。」(笑)
それでは3によってエスニシティの掘り起こしに成功したとして、それを全体に還元するにはどういう手があるのか?ということで、4の実証が有効技として出てくるのである。

*1:「国民」の古代性・閉鎖性・共同性