偏見と憎悪

20世紀は人々の地域移動が絶え間なかったことで、それまで各地で固定維持されてきた文化がクロスオーバーし衝突する危険が増したとするニーアル・ファーガソンは、戦前の日独帝国主義の理想と現実を以下のように纏める。

ヒトラーの帝国は本質的に、「東方総合計画」で描いたような人種的に階層化された理想郷になりきれなかった。征服した諸国民の汎ヨーロッパ主義や反ソ連主義に訴えようとすればするほど、ナチスは血なまぐさい大量殺戮を協力者に頼るようになったし、途方もないアーリア人の楽園を求めて総力戦をすればするほど、人種の混合は進んだ。この現象は、ナチス帝国主義だけに見られた特色ではない。同盟国のドイツと表面的には異なるものの、アジアにおける大日本帝国も、ドイツとまったく同じ矛盾した傾向を示していた。日独の帝国の建造者たちは、生存圏を拡大し、人種的な純度を保ち続ける生粋の入植者を移住させれば、彼らは容易に進出できて繁栄するだろうと考えた。双方とも、自分たちの帝国よりはるかに弱いはずの、既存の帝国に対する地元民の幻惑感につけ込むことができると考えた。だが、日独ともに、協力者や奴隷動労者が欠かせなかったために、人種的に序列のある帝国をつくるという当初のヴィジョンが妨げられた。ナチスの「広域経済圏」のように、日本の「大東亜共栄圏」は人種差別主義に基づいたユートピアを建設しようとしてはじまったのだが、虐殺場、入植地、売春宿を掛け合わせた代物に成り果てた。

ニーアル・ファーガソン憎悪の世紀 下巻―なぜ20世紀は世界的殺戮の場となったのか

20世紀前半はユーラシア大陸の両端を戦場とした西洋vs東洋だったが、第二次世界大戦後半は「民族浄化」で少数民族が激減した為に社会が均質化し、同時に紛争多発地域が「溶接して密閉」(鉄のカーテンなど)され冷たい平和が、しかし大国間経済戦争を表とするその裏では果てしない戦争が「第三世界」の拠点を変えて繰り返されているとする。その始終一貫した残虐性については、「文明国の指導者が自国の国民の、他人を殺したいという最も原始的な本能に訴えかけることに成功した点」と締める。えっ、そんな単純なともおもうが、「総力戦」に持っていくには、確かにそういうわかりやすいハナシでないと大衆動員でき得ないであろう。
アムネスティ・レポートを読んでいると各地の紛争は、どうやら偏見と憎悪の可視化増幅が発端となっているようだ。