国粋化と国際化の共謀動乱=文化戦争

多文化主義がすべての現代社会に突き付けている基本問題は1つだけ、すなわち近代性(モダニティ)の問題である。差異と同一性、平等と正義、相対主義と普遍主義、合理主義と主観性、市民性、論理、法、これらのものは、われわれになじみ深いものだ。近代的投企(プロジェクト)の分離(カテゴリー)そのものが、全般的に見直されようとしている。社会的政治的挑戦、論理的哲学的挑戦を超えて、われわれに多文化主義が突き付けるのは、まさに文明の挑戦なのである。

アンドレ・センプリーニ『多文化主義とは何か

そおいえば、そもそも「グローバリゼイション」なんてえのは、歴史パターンでみれば昨今に限ったことじゃない。近々では、19世紀末がまさにそうだし、戦国時代とか大化の改新前だってその当時のグローバリズムの風がふきまくってるんじゃあないかな。
ドミニク・ストリナチ『ポピュラー文化論を学ぶ人のために』に依るとホストモダンは、文化と社会の区別の消滅、実態と内容を犠牲にしてスタイルを強調、高級文化(芸術)と大衆文化の消滅、時間と空間の混同、「メタ物語」の衰退であるらしい。グローバリゼイションと多文化主義(マルチカルチュラリズム)は表裏一体なんだし、こうしたポモを通過した後ならば、「マルチカルチュラリズムとしてのナショナリティ」こうしたお題は十分に成り立つ。「美しい国」を標榜した安部普三&保守派が、それ同時に目標とした日本の国連常任理事国入りなんか、まさにそのラインであろう。そゆ意味で、伝統回帰ではなく今日的最先端なのではないだろうか。>日本化を纏う日本 id:hizzz:20050505、Beautiful Japan id:hizzz:20070126#p1 (言っとくが、なんであれ「新しい」もしくは「温故知新」だからといって、それが常に後世にとって「善きもの」となるとは限らない。そこんトコ、よろしく。)でも、その最先端の鼻は、へし折られた現状なんだけど。。。
ナショナルな枠組みがブランド「所有感覚」のようにアイデンティティ共有され認識消費され他文化と強調競合されるとき、より「日本的」ステレオタイプな価値・美意識に固有性が付着した記号となる。こうした現象を踏まえながら岩渕功一は、グローバリズムと表裏一体になっているナショナリズムの役割を明らかにする。実はこうした構造を利用することで、西洋オリエンタリズムによって規定されつつ自らをセルフオリエンタル化して、日本VS西洋の二項対立という一元化された文化的想像体構造で、日本人・日本文化を本質主義的に"想像=創造"してきた。

排他的なナショナルな求心力が強まっている動向に目を向けずに、日本におけるナショナルな心情を歴史的・地政学的な文脈のなかで相対化して内側の視点から理解しようとする議論は、社会で周縁化される人たちの「リアリティ」とは遮断されたものとなり、結局は、排他的な国民の再統合と再想像の力学図らずも与してしまうことになる危険があるだろう。これまでのナショナリズムやナショナルな愛着に批判的な議論が、多くの人々がそうした心情を持っているという真実性を真摯に理解してこようとはしなかったことは否定できない。しかし、それを乗り越えるべく、ナショナリズム批判の議論から、"置き去りにされた他(数)者"の心情を理解する試みが、まさにそうした心情によって社会で周縁化されている"なおざりにされた他者"への視座に目隠しをするような作用を及ぼしてしまうなら、事の本質が見失われてしまう。社会の多文化状況が深まるなかで、同じ社会空間に住まう多くの人々がいまだに二流市民の扱いを受けているにもかかわらず、日本をどのようにしてより包括的な社会にしていくのかという議論が国の在り方についての議論からますます後退している現状に加担してしまうからである。

岩渕功一『文化の対話力―ソフト・パワーとブランド・ナショナリズムを越えて

普遍(モダン)=近代性への抵抗としての「所有と実存」というナショナリズム原理主義に支えられたまま、フラットな「多様性/多文化」という現代への抵抗=文化戦争に突入して、自己決定の個人主義的自由追求か人体的自然管理として公共平等化追求かの論理展開の中で、そのどちらにも分けられない情緒的結合体の内面的緊張が現われてくるのは、なにも歴史修正主義者=右翼・民族派に限ったハナシではないのである。
地方30代フリーターの悲哀を綴った赤木智弘が、同様の悲哀を共有する筈の左翼で激しいバッシングを受けたのは、最近のことである。「護憲と反戦」が第一のノンセクト市民派&左翼にとっては「希望は戦争」は許しがたいということなんであろうが、それへの怒りや反論展開すればする程に、地方30代フリーターをさらに「なおざりにされた他者」として分断してしまい、第三者には結果的に赤木左翼批判説(なにもしてくれない左翼運動)を居丈高なパフォーマティブで自己証明してしまうこととなる。
id:hizzz:20040716#p2でカキコした通り、大抵の人権思想は国家権力のバックがあって始めて成立つ。ナショナリズム(とセットの反ナショナリズム)がもつこのような性格に対してスラヴォイ・シジェク『人権と国家―世界の本質をめぐる考祭』は、国家=抑圧、ナショナリズム=危険というステレオタイプから1歩踏み込んで、グローバル化問題や不安の「最低限の保護」としての国民国家の役割を考察している。
反グローバル運動や文化政治パフォーマンスにすれば、ひどく後退した地味なハナシかもしれないが、人が人として多様な個を生きる為にクリアすべき現実運動とはこうした地味なハナシ、プロトコルとしての制度合意の積み重ね=契約≒連帯なのではないか。