追補2 議論に於ける定義とは

かろうじてトラバは残して頂けてるみたい?*1だが、相変わらずコメント欄は締め出しなnichijo_1さんはなおもいう。「人文理系を問わずに「明確な定義でなければ批判は成り立たない」というのはかなりの問題があり、これこそが批判を停滞させるものだ。」http://d.hatena.ne.jp/nichijo_1/20080303

菅野武士道を「本来の武士道」とするのが何故おかしいのかは、id:hizz:20080302に書いてあるので具体的にはそちらを。

●hizzの問
nichijo_1さんの当該記事に対して「日本の武士の長い歴史をたどって好みの武士像を取り上げれば、好みの「武士道」論(=思想文学)が出来上がるわけです。その成立過程の状況文脈的妥当性がどうであるかなだけで、論自体には「嘘」も「本来」もない」という定義をたてて菅野武士道に対するnichijo_1さん自身の意見を聞いた。
●nichijo_1さんの応え
「『武士道の逆襲』のあとがきで武士道の基本骨格のキーワードの一つに「戦闘者」があります。『武士道の逆襲』には、その戦闘者と武士道についての記述が複数あります。」と応答。あとは当該本・自己記事読め一辺倒。

「当該本読め」と著書依存したまま自己解釈主張を明確にしない論が何故ダメなのかは、後付けで自己と著書という2つの立場(別枠)を自己都合で往来できる無責任状態となる曖昧だから。<反証可能性の原則
既存本を根拠として記事を書いたのは、nichijo_1さん自身の思考行動である。その根拠に対して疑問を投げかけたのだから、菅野定義の「本来の武士道」はnichijo_1さんの解釈ではこうであると明確にすること(イーブンな姿勢)をもって、「本来の武士道」疑問に対する違う意見が同等に平場に示されることで、その「本来の武士道」というのを根拠とした当該記事は妥当か否かという議論はスタートする。対象が絵画や音楽といった抽象的なものでも、文芸思想の批評のセオリーもそこから。
「論者によってブレが大きかったら」、ぶくまでREVさんがおっしゃられているとおり、「サッカーかバスケットかを決めずにボール遊びするようなもの。」主語・主体不明なままてんでに明後日のいいあい、為にする議論となる。
菅野自身だって「武士らしい武士とは何かを追求するのが武士道」と自己規定している位なんだけどなー。対象事物や手法が、科学であろーが史学であろーが文学であろーがカルスタであろーがポストモダンであろーがセクシュアリティであろーが間テクスト解釈であろーが、問を立てる=定義することから全てが始まる。問をうまくたてることそれ自体が、問題提起-結論への道の第一歩。ジェンダーや当事者問題だって例外ではない。まったく局所事情を知りえない第三者=一般に納得のいく問題提起-結論ができて初めて、その問題は自己感想から社会共有できうる普遍的な問いとなる。

id:hizz:20080302並びに上記「出されるだけの女たち」は何故、議論がはじまらないのか」と含めて、改めてnichijo_1さんには熟考して応答して頂きたい。
批判を停滞させる「為にする批判」立ち位置保持・アイデンティティ政治以外の、自己意見も定義しない相互批判って、一体全体どういう議論?それって立ち位置政治以外には何の役にたつのかな?

*1:自動作成トラバリストは任意で消せないのかな