道徳科学の原理は、人か、女か?

1871年明治4年)、政府は廃藩置県と共に、戸籍法で「家」の範囲を規定し、家長=戸主とする家族が組織最小単位となる。
「抑も世に生れたる者は、男も人なり女も人なり。この世に欠くべからず用を為す所を以て云えば、天下一日も男ならるべからず又女なかるべからず。」 『学問のすゝめ』明治5年、と明治啓蒙思想をぶちあげた福沢諭吉。同年に学制発布されたが、その時に使用された「修身教科書」は、「士道」や「女訓」といった旧来儒教のものや故事訓話講話ではなく、57冊もの海外道徳書からの翻訳ものであった。
諭吉にとって、このような明治啓蒙思想の形成に多大なる影響があったのは、「武士道」でも「プロテスタント」倫理でもなく、1835年発行フランシス・ウエーランド『エレメンツ・オブ・モラル・サイエンス』という経済書。これに出会った諭吉は「一時脳中に大騒乱を起こした」と大興奮。従来の『論語』『大学』などの儒学に換わる、近代的世の中のモラル体系とその体系での各人が持つべきモラル体系の一体構想をする為に、探し廻っていた最中のことであった。

Moral Scienceは「道徳科学とは道徳法の科学である」という一文で始まる。ウエーランドにとり科学とは、「自然法、および、人間の幸福の増大のためにそれを適用しうる方法についての知識」であった。つまり、「道徳法の科学」とは、自然法、すなわち神によってこの世に埋め込まれている法を、人間の幸福をめざして、人間自身が探究することなのである。ここにあるのは、神と人間との、幸福な、予定調和的世界の最後の瞬間である。

そこから「人は万物の霊なり。性の善なる、固より論をまたず」とし、「人倫の大本は」「親子」でも「君臣」でもなく、「夫婦である」と定義した。また徂徠「修身斉家治国平天下」から転じて「一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし」という骨組の中にその個々の位置を確定させ、「男女同等論」に。
それに対して上杉鷹山は「男女の別は人倫の大節にして男は外に位し外事を治め女は内に位して内事を治ることなり」と「男女の別」を説く。子女教育というものが意識されるに従って、女性は「人」として教育すべきか「女」として教育すべきかという論争が勃発。それが、「人」ではなく「良妻賢母」教育に傾くのは、明治啓蒙思想=欧化主義のバックラッシュと時を同じくする。明治10年代後半に大いに発展したキリスト教主義女学校も、啓蒙思想を土台とした「欧化主義」にかわって、条約改正問題の行詰りで国家主義が指頭してくる20年代になると、その影響で入学者は減り、中途退学者が増えて在学生は著しく減少した。そして『教育勅語』発布がその「欧化主義」のとどめをさす。

(賢母良妻主義というのは)女子も国家に封して、男子に劣らぬ義務を有って居ります。すなわち家庭の司となって良人を助け、良人をして内顧の憂なく、自由に国家社会の事業に活動する事が出来る様に仕向ける事と、今一つは子供の母となって、十分に教育萬端の事を司り、次代の国民をして、益々良き国民とならしむ事であります。

下田歌子香雪叢書〈第4巻〉