啓蒙バックラッシュ

「利益線の焦点は実に朝鮮にあり」と常に朝鮮をめぐる戦争を意識し危機感をつのらせていた山形有朋は、兵備拡張とその教育が国民愛国の要となる最重要課題だと考えていた。キリスト教を西欧列強の経済的侵略への思想的武器とみなしていた井上毅は、啓蒙思想に同伴するキリスト教へは激烈な嫌悪観を抱いていた。理想儒教を「経世済民の学」とする倫理名教的な立場から、現体制を維持する為には「思想的鎖国」をも主張する。宗教と西欧科学技術を分離して考え、日本の歴史的特殊性(国体)を維持、尊重しつつ西欧の科学技術を導入せんと「東洋道徳西洋藝術」という方法論をさぐることとなる。そこで元々「学問(儒学)の思想」にある「一一種中一等の族類」=「士族」を政治、経済、社会各分野における指導的中堅勢力に位置づけようとした。>士族虞分意見控 このようなところから『教育勅語』は誕生する。
西洋科学における理の優位性そのものが、それをそのまま社会理論における理の優位性へと連続させるには、これまでの身体化した儒教朱子学的身分秩序な心情では、どうにも我慢できない激しい抵抗となった。しかし、優位性ある西洋科学は大いに取り入れたい。その為、「教育」と「学問」とは別、モラルはサイエンスでなくて修身教育という解釈が必要とされた。こうして西洋科学=技術=理系、儒教朱子学=教養=文系のダブスタ状態で「日本近代教育」が推し進められる。
鴎外『舞姫』のモデル・井上哲次郎明治24年勅語衍義』によって、勅語を政治的に補強する。江戸時代以来の民衆&士族をもって国民とする為には、人格的表現としての天皇と自己との関係を明確にする為に、天皇大親とした。『教育勅語』はこうした時代の都合に合わせた解釈(&主体)をその都度変えることによって、少しずつその姿を変えて使用されてきた。こうした勅語に不満をもった西園寺公望は、もっとリベラルなものをと天皇内諾までとりつけた上、第二勅語を記そうとしたが、結局実現しなかった。
明治33年『時事新報』で、子女教育は益軒『女大学』か諭吉『女大学評論・新女大学』かの「女大学」批判キャンペーンが沸き起こり『婦女新聞』などの婦人誌がこれに参戦する。これに対して井上哲次郎は、協会こさえ『女大学の研究』で、益軒大絶賛。
さてそうやって朱子学的序列に子女教育を落とし込んだ井上毅だが、目の上のたんこぶ、姫様=貴婦人はどーする?天皇大親なら、皇后は「皇国の母」として「良妻賢母」の序列の先頭にすえたのである。日清・日露での戦病者慰問に飛び回る皇后美子をもって、そのイメージに結びつけた。現在も日赤名誉総裁以下、皇室夫人がずらりといならぶのは、そのなごり。>従軍慰安婦*1 従来ならば御簾の奥深くでルンルンすごしていればよかったが、明治開明の世の中に晒されたのは、「皇后」その人であった。「皇国の母」と称されれど実子を持ててない中、前例なきその地位をどう表出していくのか苦悩した美子は、やがて慰問のみならず謁見等の「理想的女性」ならではの「公務」に地位の活路を見出していったのだ。
そんなこんな、江戸から明治への変遷で一番没落したのは、かって「傾城」「花魁」と讃えられもした遊女。「徳婦」=「良妻賢母」id:hizzz:20080215#p2のその影で、「娼婦」「売淫婦」「醜業婦」としか呼ばれなくなった彼女達は、遊郭崩壊によって世の蔑視線に晒されるようになった。一夫一婦制を支持する諭吉は、こうした女性達を卑しむ一方で娼婦制度を黙認していた*2。が、そこでしょぼくれちゃあ女がすたる、男女交際に貴賎があるものか。と、マスコミの揶揄もなんのその、好色漢として名をはせた伊藤博文の夫人以下芸者衆は、鹿鳴館でその華をみせびらかす。が、娼妓取締規則、花柳病予防法で、「〈健全〉なる慰安婦」として「皇国の母」の基報国序列化する。>id:hizzz:20070616

そもそも、道徳・倫理・モラルという問題は、人間が一人では成立しえない共同的存在であることと関係する。
歴史的に見ると、「大日本帝国」を名乗って日本列島に登場した国家は、この問題に明快な答えを与えた。国家が、道徳・倫理・モラルの体現者として立ち現れ、法律・制度のみならず、個人や社会全体の道徳も公定しようとしたのである。

関口すみ子国民道徳とジェンダー

The Elements of Moral Science
http://www.lonang.com/exlibris/wayland/
学制百年史 文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/index.html

*1:1942年5月の「慰安役務」に就く朝鮮人女性徴集に関する日本人捕虜尋問報告>http://members.at.infoseek.co.jp/ash_28/ca_i02_1.html

*2:「娼婦は日本では、当たり前のことだ。しかし、外国では、男子の品行が表面上、とても清潔で一点の汚れもない。そのため、日本の有り様を見られると何かと世界で批判の的となるに違いないから、娼婦達は、西洋人の目のつかないところへ集中させるべき」@『続福沢全集5』