ジャパニーズ・スタディーズとしての北方圏

東アジアを繋ぐ発想はアジア主義か大アジア主義な「大東亜共栄圏」っきゃないのかといえば、そうではない。
『環日本海諸国図(通称:逆さ地図)』環日本海経済交流センター 富山県
http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1510/kj00000275.html
このように地図をぐるりと反転してみれば、日本海は東アジアの内海とも捉えられることがよくわかる。その日本海に接する諸地域圏を「環日本海圏」として移動・往来して生活していた人々の存在は、中央集権国家「日本」史的目線からは、分断され「均一化」により隠ぺいされてきた。>網野善彦日本社会の歴史
中央集権国の武力支配長の称号が東北地方制定する「征夷大将軍」だという事実を裏返せば、彼らは単に中央政権に追いやられる一辺倒の周辺雑民ではなく、その存在が脅威であったということを表す。事実、地の利と機動力を活かして日本は基より渤海等の形成などにも影響を与えた。>小林 昌二『日本海域歴史大系 (第5巻)
アイヌ人とは、擦文式土器文化圏(続縄文人)の子孫かオホーツク文化の末端かな単純二分法でなく、古代・擦文文化圏の「蝦夷」(エミシ〜エビス〜エゾ)と、中世〜近世の「渡党」「日の本」「唐子」と、近代の「アイヌ」との関連変遷は複雑に入り組んでおり、諸説ある。琉球などと違って統一した政権をもたなかったこれら諸地域にまたがる人々については、語られる視座、特に編纂される一方の歴史と、口伝伝承と、その実態とは常に微妙なものがある。なぜならば、アイヌ史をさぐろうとすれば、それは「アイヌはどうみられてきたか」→「アイヌをどうみてきたのか」という他者=認識主体者の「蝦夷アイヌ観」を抜きにしては、成立しない。
本州東北、蝦夷地(北海道)、樺太(サハリン)、千島列島、中国大陸アムール川流域に渡る地域は、19世紀まで中央政権(日・清・露)の直轄統治が具体的に及んでいなかった。近代以降、世界が国家為政者達の一方的な境界線で根こそぎ分割されたからこそ、「方民」*1土人」「旧土人」「少数民族」「先住民」等の意味づけによる認知と統治問題が出てきた。

*1:長谷部言人:あらぶる者たち、まつろわぬ者たちという王化にまだ浴さない東国・東北地方民