エゾ〜アイヌと統治国家

それまで「蝦夷人」「夷人」といわれてた者が、「土人」と呼ばれるようになったのは、幕末の蝦夷地直轄1858年からであり、「その土地の人」という普通名詞が特定の集団を示す言葉として幕史に用いられた。最上徳内らの和夷同祖論を盾とした日露和親条約では、樺太アイヌと違う風俗の土人=北海道アイヌは、土人「撫育」した→全蝦夷人=日本国民→全蝦夷居住地=日本領土な論理で領土権を主張したが、樺太・千島を分け合って以降、北海道地券発行条例でアイヌ人居住地を官有地に編入した上で例外的居住容認とし(要はアイヌ居住地の地権奪取)、アイヌ生活習慣「陋習」禁止、日本名戸籍編入、農業奨励、日本語奨励などの同化政策が施行された。平民として日本国籍を付与されたが、法的には「旧土人」とされた。「土人」でないところがポイント。蝦夷地とその土地の者=植民地+土人→内地北海道+内地人でない者=旧植民地+旧土人になったという為政者の意識変化が名称変更に現われているのであろう。
その中には、開拓「インディアン保護地」宜しく奥地の農業予定地に強制移住させられたケースがあったが、数年たたずに絶滅または離散となった。生業の狩猟権をも奪われた彼らは、貧困化の一途とたどる。そこから脱出して活きていく為には、明治啓蒙文化を身につける「同化」「臣民化」「皇民化」しか手立てがなかった。
この同化政策を「制度的改変に較べ固有文化の否定・他文化への強制的同一化への反発が強いのは当然であるが、不安定要素の拡大再生産でしかない『同化』を現地住民統治の主要な手段とし、しかもそれを『御恩』『皇恩』と手前勝手に意識する、特殊日本的なのかアジア的なのかわからないが、十五年戦争期まで続く近代日本の植民地支配の原型は、すでにこの時点で余すところなく示されている。」とする海保嶺夫は、近代化を以下のようにいう。

国家権力は時代の進行とともにしだいに個人に近づいてくる。一方では、個人の権利・自由は時代とともに拡大・強化され、それこそが近代化であるとの考えが根強い。国家権力が個々人をとらえきった掌のなかでの権利や自由などの強化・拡大というべきであろう。近代化の特質は、あらゆるもの(言語・風習・教育などすべて)の均質化をともない、地域的、文化的相違を否定する。近代化とは右のような現象を伴うというあたりまえのことが忘れられることが多い。

海保嶺夫『エゾの歴史―北の人びとと「日本」