誰でもピカソ?

ざらっと、アートのおさらい。神=クリエイティヴ天地創造)=公共=絶対権威な中世・近世封建主義に代わって、ブルジョワ市民社会と「神は死んだ」モダンアート誕生によって、人々は個々の感性で独自の芸術観念を確立できるチャンスを得る。それは職人から、個人作家の誕生でもある。アートはそゆ神様の意図を伝える布教物であるからこそ、芸術=公共となり得た権力構造の一貫であった。モダンのパイオニアであるピカソは「芸術を自分達の手に取り戻した」といった。芸術は私的な個人メディアとまえにカキコしたのはこういう歴史的過程からである。しかし、そこで安心してはいけない。アートの能力を一番判っているのが、支配者である。彼らはアートを恣意的ジャッジし付加価値を付けることに依って作品をコレクションしそれを提示することで公共性を開示し、人々を自分達の価値観の中へ従属支配しようとし始めた。美学・芸術=政治はファシズムにつながった。>ナチ退廃芸術展、ロシア社会主義リアリズム、白樺〜京都学派
大戦・戦後の反体制運動でファシズムは一掃されたようなんだが、はてさて、アートにとってはこの間はなんか成果あったのであろうか。鶴見俊輔が『限界芸術論』を唱え美共闘・日宣美闘争や読売アンデパダンの喧噪の後のそゆ挫折感をかかえて、現代アート群は癒しの70年代後半をすごす。
そして「小さな物語」の時代ポストモダンへ突入した80年代とて終焉したハズの「大きな物語」はなくならない。それは公私プロダクツとして現前と消費対象になっている*1白樺派前後に数多設立された美術団体はサロン化して営々と団体展を営み、お芸術カルチャーのその牙城は揺るがない。バブル期に犯した最大の失敗は無謀なアート投資ではなく、批評言説にかまけて、国内アート市場構築という現実的手段を怠ったことである。
ま、下降する一方のアートをしりめに、おたくを中心としたサブカルチャーの裾野は広がりDIYで、自前インフラと流通市場を次々と開拓していく。「ヘタうま」とは、こうした下降するアート界へのアーティスト達のシニシズムだったのであるが、これで大勘違いが始まった。もうはやテクやコンセプトではない「感性だ!」と。歌謡アイドルから突然「アーティスト宣言」をしたラ・ムー菊池桃子本田美奈子のように、アートするアタシを見せば、クリエイター。かくして乱立するアートスクールの数と共に皆クリエイターを目指し始めた。>大野佐紀子『アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人
しかしバブル弾けると共にそんなアーティスト予備軍の修業先=就業機会は、一気にしぼんだ。が、ポモ時代にたまった大量の批評言説空間の区分け先として、アカデミズムに文学部カルチャースタディ研究が勃興する。従来の美大方式ではなく、その批評言説からクリエイターを生成しようとする文学部系芸術学科が、大学進学率の伸びと共に小難しい学問やぢみちなコツコツ修練したくないけど学歴は人並みに欲しいそんなアナタにおあつらえ向の他とは違うてっとり早い表象、ア〜トオサレ系=サブカルという意匠をまとってどんどこつくられる。また、M君事件で地に落ちたオタクを論理強化しようとする岡田斗司夫も、そんなカルチャー・アカデミズムを手掛かりとして参入する。だがしかし、たとえそこで批評言説でたっぷり理論武装しても、そうした「アタシの感性」批評なんぞひとつも必要としていない当の少数精鋭で生き残りをかける実業クリエイティヴ業界からは口程にもない役に立たないと冷たく評価され、卒業先は雑貨店員ショップとかに。。。結局そうした彼らはアカデミズムへのやるせないルサンチマンを抱いて、アート難民となったのである。
さらに、昨今「アウトサイダーアート」という、統制管理された我執「狂気」*2というしかけが商品として市場流通してしまったことにより、アーティスト症候群達の「アートするアタシ」という一発芸なライト私小説は、その「生政治」度(意味より強度)に於いても、アウトサイダー様方の多様でディープな超然我執蓄積実存の前では全て吹っ飛ぶ。*3いたるところで断絶してしまうこうした日本美術史を中ザワヒデキは「自爆につぐ自爆の歴史」と表現する。

*1:id:hizzz:20080412 映画『靖国』問題で国会議員らのクレームが前時代的なのは、彼らの芸術観念が近代以前=封建主義からくるプロダクツに他ならない。いや、実はそうしたポモの多様性だからこそそういう大時代的「小さな物語」が息づいている。批評言説がメディアになりうるという新たな支配体制が確立したのは、かくゆうポモの特徴ではないだろうか。まさにそれだからこそ、牧歌的観念の上での抵抗言説では、なんの擁護にもなってないというのが、このさわぎは「表現の自由と公共性以前」の問題だとワタクシは見たのである。

*2:システムの中に、システムが必要とする抵抗勢力を誘発する一定の「狂気」を飼いならしておくという伝統的権力自助作用プロダクツ>ピエロ、幇間、文学、哲学、芸術といった「奇矯」
その手法があからさますぎて失敗してしまった最近のアカデミズム事例が、「BL読みの腐女子」を扱った日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」>http://tanshin.cocolog-nifty.com/tanshin/2008/05/post_df4f.html

*3:前に「アウトサイダーアート」の特集をTVでやっていた時に、なぜか着物姿の田口ランディが作品を見て回り「あたし、この子が好き」とひとつのオブジェを指した。…「この子」、さすが最近霊能づいてるランディならではと言うべきか。支配力のおぞましさでは負けていないぜ。