『美術に限っていえば、浅田彰は下らないものを誉めそやし、大切なものを貶め、日本の美術界をさんざん停滞させた責任を、いつ、どのようなかたちで取るのだろうか。』

…という会田誠の絵画作品がある。>http://www.momoti.com/2008/05/post_14.html
この絵は所謂「判じもの」なので、文字通り浅田彰にケンカ売ってんのか以外は、現代アートに関する幾つかのネタが判ってないとなんのことやら、さぱーし?ということになる。
id:kmiura:20080515#cでコメントしたことをブクマされているので、結構興味ある人がいるのだよね。>http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.momoti.com/2008/05/post_14.html ちょっと不親切すぎたかもしれないので、以下ワタクシ的見解をば。。。
まず、この絵を見た現代アート人達にただちに思い起こさせるのは、岡崎乾二郎なのである。>http://kenjirookazaki.com/ ←ここの“Printing”から一連の作品を見てほしい。
岡崎作品の特徴は、白地を見せて殆ど重ならないように色をおくマチエールの左右の反復というディプティック=2幅対と、一見意味深な長いタイトルにある。アート人でも誰でもいいが、あの長いタイトル(Webサイト上では作品左下の小さな文字らしき箇所をクリックすると可読できる)を見て覚えられるだろうか?無理である。作者は無理を承知で、あの抒情的文言を連ねているのだ。ヴィトゲンシュタインがどーのこーのとさかんにいってる岡崎は、場所や物や知覚の固有性を困難にする不確定が意図といえば意図なんであろう。したからこの絵を見た誰も確定出来得ない。その代わりに確定してるのが、岡崎乾二郎という固有記号。だからこそ岡崎の饒舌「言説」がタブローとして存在する。あの絵のマチエールはそうした言語の「筆跡」=痕跡に他ならない。要は、「岡崎のたくらみ」、ぶっちゃけて言えばオレ様岡崎言説の為の演劇的しかけとしての絵画私小説なんだろう。またそうした「言説」で描かれた作品であるからこそ、言語媒体しか持たない批評家の居場所が作品の中にある。したから浅田彰のような、現代思想・アート論者にとっては、自説をこねくり回す為には非常に都合の良い媒体なのである。>視線・批評言説の往復運動によって立ち現れる意味ありげな空間=場所 で、岡崎にとってはそうした他者批評言説空間も又、ディプティックとして取り込んで、「そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない」という視線・言説の往復運動を繰り返す現前懐疑によって固有性を曖昧なまま存在しようとする「岡崎のたくらみ」政治アカデミーゲームは茫漠と超然存在するのであるのことよ。><複数形の私>のたわむれ*1
会田のこの間のヌケたぐにんとしたマチエール&タイトルは岡崎のそれを真似たものだろう。が、2幅でなく1幅であるが、その1幅が常に岡崎なるものを連想される「幻想」をもってして、こうした「岡崎のたくらみ」と合わせて会田誠をディプティックとしてベタに提示して、「さあ浅田彰よ、批評しておくれ!」といってるに違いないっす。
つねづね日本土着なるものをひたすら排除すべくアカデミック構築を企んでいる浅田は、京大辞めて、アート畑の京都造形短大に。>http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080430bk07.htm

*1:いやだから、こうして解説しようとしてしまうワタクシも又「岡崎のたくらみ」政治に従属してしまうことの、くやしさ。ムキー