アート・アクティビスト達の冬

会田誠によってぐずんぐずんになっている、リニューアルした『美術手帖 2008年 05月号』。リニューアルする前はどーだったかというと、山ほどの批評言説が、アート作品そのものを離れて乱舞し、それと広告主の美大予備校や団体展公募や画廊とのあまりの乖離が大がかりな冗談みたいな雑誌ではあった。ちなみに2005年7月号の日本近現代美術チャートで岡崎乾二郎の扱いは、「美術批評家(兼作家)」的位置である。
さてその会田誠とのインタビューで、居候ラー・小川てつオのブルーテント村*1で行われた「青空雑談会」は、イルコモンズ・小田マサノリ、新宿段ボールハウス絵画・武盾一郎、桃色ゲリラ・増山麗奈といったその界隈では有名なアート・アクティビスト達が、理念と現実と自己承認と生活をごっちゃにしてショボく雑談している。

小田マサノリ「今日ここで『美術手帳』に聞きたいのは、「もし、この会田誠特集がなかったら『美術手帖』は「渋谷アートギャラリー245」のことをとりあげなかったのか?」ということです。

いちむらみさこ「エノアールカフェをとりあげない点でも、『美術手帳』は遅れている!『現代思想』や『アナキズム』、新聞や海外のメディア、アルジャジーラまでとりあげました。排除の危機にさらされつつ、4年もやっているのに、アート・メディアからは何の反応もない…」

もう痛い程、気持ちはよくわかる。よくわかるが、『現代思想』や『アナキズム』、新聞や海外のメディア、アルジャジーラを権威としてしまうそういう意識は、はたして「オルタナティヴ」なんだろーか???という大疑問が沸々と湧く。旧来メディアたる『美術手帖』に載りたい承認してもらいたいってのは、そのまま自分たちがオルタというもうひとつのアクティヴ場所を作り出せてないということなんではないだろうか。例えば同人サブカル活動者の誰が『美術手帖』に載りたいと思うことがあるだろうか。この上記の問いに対して編集の人が結果が出てないと扱いにくいということがあると答えている。それに対して増山麗奈は「ジャーナリズムなんだから、結論を導く役割をしないとダメじゃないですか。」と、言説空間創造をせまる。そこまでせっぱつまっている状況も十二分に判るが、やっぱそれをメディアでいっちゃあ、アート・アクテイズムとしてダメだろう。*2このインタビューでもそうだが、結局、活動結果ではなく「こんなオレ達を判って欲しい」が、アート・アクティビストの目的のように見え、それなら自身をアート・メディアとして評価出来得るスタイルが作品として現前しているかといえば、それは非常にあやうい批評言説の中にしかないという状態=アートとして自律しておらず常に言説の従属を求めているから、アートにとっては鬼っ子となるのである。
00年以降のジョン・レノン岡本太郎をメインビジュアライズとしてしまった、批評主導な反戦平和運動も、そんなアートの後退といえる。アート・アクテイズムは、その2故人=前時代以降メインとなるなんのクリエイティヴも見出せないということを自分たちで表象してしまっているのだもの。いやそれだけではない。官製国策美術として日本近代美術が出発して以来の美術業界を、日本という「悪い場所」現代という「閉じられた円環」と批評していた筈の椹木野衣が、日本画壇の王道たる東郷青児体制二科会の中心運営者であった岡本太郎を持ち上げまくり、遂には平和運動のメインキャストにすえるという「閉じられた円環」生成行為=前時代を、きっちり批評できえないでへたれてしまっているアート・アクティズムや文化左翼の批評感覚とは、いったいなんなんであろうか?
しかし、せめて「マルチチュード」ぐらいは曖昧にせずに、きちんと日本語の定義をしておくれよ。>抵抗言説に画ける批評家さま方

*1:野宿者

*2:そういうヤラセがネット言説では強烈に嗅ぎつけられてバッシングの基となるんだけどなぁ。。。