願望にかなわない事実よりも、 願望にかなったウソを追及しつづけた遂行的矛盾

「他人が見ている青と自分が見ている青が同じかどうか確かめることはできない」というヴィトゲンシュタイン流の問いもこの問いに限り、偽の問いとして斥けなければならい。そもそもわれわれは「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめることはできない」はずなのだから。

岡崎乾二郎ルネサンス 経験の条件

「視線・批評言説の往復運動によって立ち現れる意味ありげな空間=場所」とは、あえて言説をこしらえ語り合うゲームをすることによって、新たな言語空間=オルタナティヴを生成する幻想共有体こそが、思想と思想人が自己実現できうる唯一の共産運動だということなんだろうな。ポストモダンとは「近代的価値観を「大きな物語」と定義して、その終焉を告げた上で、「全く新しい時代到来」という文脈でゲームをするゲーム」なのである。どうやって変えようか・変ろうかということよりも、変った結果を先取りした「あえて建てた設定であえてするゲーム」といえよう。そんな言説にはオリジナルはない、沢山の同類項が乱立してるだけである。そうすると唯一無二なのは、言説ではなく、「言説を語るプレイヤーたるオレ」に行き着く。
じつは左派が執着する「抵抗の言説」というのもそれと同じで、「社民・社会・共産主義」の実態が次々と亡くなっていく中で、例えばポモ的オルタ共産運動のハテのオウム事件という現実や、自己実現運動の死屍累々があろうとも、スピリチュアル・自己啓発という手段そのものは、絶対に手放さないのは、言説空間という理想に一途だからだ。いや、実現困難だからこそ、思想ゲームとしてはやりがいがある*1。なんのこっちゃあ意味不明な言説をアクロバットのように組み立てて意味ありげな批評空間を拵えるバーチャルゲームばかり繰り広げられる。そのゲームが有効でその中にあるとき、「常に、お前とは誰か何者かを、近代から問われ続ける」むきだしの私ではない、モダンな自己を表象できうる。><複数形の私>のたわむれ=“not alone” それが「思弁クリエイティヴ」とでもいわんばかりのゲーム意図とワタクシは見るが、アート・クリエイティヴ唯物論的に「作品としての現実化」に固執し営々と追及しつづけてきたのか(その必要性が何故あったのか)を意図的にハズす行為であった。
そんな現実と乖離しだした自己回復→承認に向かった文化左翼運動からは、労働者は追い払われる。>「労働者、有罪」@矢部史郎 id:hizzz:20050104  貧困も忘れ去られる。>「万国のミドルクラス諸君、団結せよ」@渋谷望 id:hizzz:20050116 しかしそんな威勢のよいアジも、シカトされたミドルクラスをささえる貧困労働者から眺めてみれば、高等遊民のゲームのたこ壺で踊るピエロでしかない。いくらそんなアクロバット理論で武装したとて、時間がたてば誰でも腹はすく。いくら「共感」を積み重ねたとて、生産なき運動では循環はなく一方的な資産消耗でしかない。その寿命は各自の親世代=前時代が構築したインフラだのみ。かくして現実の貧困当事者はいう「同情するなら、金をくれ!」と。>id:kmiura:20080517#p1 左派の失策と<佐藤優現象>

*1:伝統的権力自助作用プロダクツである「狂気」の飼いならしから、「狂気」を「自分たち」の手に取り戻し抵抗戦略とするって「革命」意図があるのかも。>左翼とスピリチュアル・疑似科学陰謀論の関係