「歴史認識」問題浮上

歴史認識」が外交問題となったのは、「歴史教科書問題」が勃発した1982年6月以降のことである。教科書検定で「侵略」が「進出」に書き改めさせられたという報道が大々的になされ、中・韓政府から「歴史歪曲」として大批判がおきた。日本政府はこれに対応して以下の見解を示して、沈静化した。

「歴史教科書」に関する宮沢内閣官房長官談話 宮沢喜一 全文 1982年8月26日
一、日本政府及ぴ日本国民は、過去において、わが国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んで来た。わが国は、韓国については、昭和四十年の日韓共同コミュニケの中において「過去の関係は遺憾であって深く反省している」との認識を、中国については日中共同声明において「過去において目本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省する」との認識を述ぺたが、これも前述のわが国の反省と決意を確認したものであり、現在においてもこの認識にはいささかの変化もない。
二、このような目韓共同コミュニケ、日中共同声明の精神はわが国の学校教育、教科書の検定にあたっても当然、尊重されるぺきものであるが、今日、韓国、中国等より、こうした点に関するわが国教科書の記述につい批判が寄せられている。わが国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する。
三、このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する。すでに検定の行われたものについては、今後すみやかに同様の趣旨が実現されるよう措置するが、それまでの間の措置として文部大臣が所見を明らかにして、前記二の趣旨を教育の場において十分反映せしめるものとする。
四、わが国としては、今後とも、近隣国民との相互理解の促進と友好協力関係の発展に努め、アジアひいては世界の平和と安定に寄与していく考えである。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/miyazawa.html

その後、そのような事実は問題とされた当年度の教科書検定ではなく、誤報であったことが明らかになる。この誤報問題がからんで「中韓内政干渉」「内政干渉に屈伏した政府」と保守ナショナリスト達の憤懣が表面化し、この反動に乗じて居場所確保した歴史修正主義皇国史観な発言もまた、政治の場でクローズアップされてくる。
だが、その当年度の検定では「侵略→進出」変更はなかったのだが、1955年(自由党と合同前の)民主党「うれうべき教科書の問題」報告書により、文部省が教科書検定制度化し「原爆の悲惨な面は記述しない」「戦争を暗く描かない」「太平洋戦争に関しては、事実であってもその記述を控えめに」「自国の行為については『侵略』の語を用いず、『進出』とせよ」とするガイドラインを示していた。これに対して著作者であった家永三郎が、学問・思想の自由を侵すものだとして損害賠償訴訟を起こし、1970年高裁で違憲判決が出て検定は後退し、1975年には「南京大虐殺」などが復活してきていた。
この談話を踏まえて政府は歴史教科書検定基準の一要素として「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること」を求める、いわゆる「近隣諸国条項」を盛り込むことを決めた。