スカーフ着用で表象されるアイデンティティ問題

結局、「ムスリムのスカーフ」が問題なのではなく、フランスのドイツのトルコの「ヨーロッパのスカーフ」が問題となっている訳である。
スカーフを着用する娘の多くは移民またはその子供であり、ヨーロッパ社会の自由を謳歌しながらも(差別を含む)様々な要因から完全同化は出来ないとなったとき、周囲の西欧的価値とは違う自らの自律を考えうるに、ルーツであるイスラーム的な価値を引き寄せて個人主義的に「自分らしさ」としてムスリムをアイデンティファイするというのは、実はきわめて西洋近代的価値観に基づいた個人像を作るあり方が、ヨーロッパ的価値観では、承認されないのである。スカーフ着用は抑圧の産物ではなく、逆に自らを解放した積極的で自律的な立場表明、それはリベラル・デモクラシーではないのか。そういった個人のアイデンティティに関わる考察に至らず、表面的なスカーフ着用にばかり拘泥する「ヨーロッパ的普遍」とやらは、はたして本当にリベラルなのかと、逆に懐疑に晒される。

近代的な個人像を基礎に置く社会が、20世紀に入り新しい問題状況に直面するようになったとき、<アイデンティティ>をめぐる問題は質的に変化することになった。すなわち、<アイデンティティ>の問題は、価値の相対化された社会における各個人の<自分探し>の問題にとどまることはできなくなってしまった。一方で、近代化を指導し同化し画一化を推進した支配的な社会体制に対して、先住民族や、地域文化に生きる人々からの反撃が行われるようになり、他方で、新たに流入したムスリム移民からの宗教意識に基礎をおいた要求が次第に強くなっていくことになった。
これらの問題群においては、<アイデンティティ>は、もはや単なる個人の問題でなく、支配社会や支配的集団以外の何らかのマイノリティなどのグループや集団を前提とし、自己がその一員に属しているという主張と結びつくようになったのである。
<アイデンティティ>の問題がこのような仕方で提起されたとき、それは、多文化主義の要求として受け止められるようになった。すなわち、現在の支配的な社会体制は、近代社会の論理に基づいているのであるから個人がいかなる思想信条や宗教的意見を持つことも原則として承認されているはずである。しかし、そのような社会体制は、実は、ある特定の文化を前提としたうえで運営されている社会ではないのか、もしそうだとすれば、そのような単一文化の社会を多文化社会へと転換されることなくしては、マイノリティのグループや集団の<アイデンティティ>に根差した要求は満たされないのではないか、と問われるのである。

坂口正二郎