ヨーロッパで沸き起こるイスラーム・バッシング

ミッシェル・モールが事情収集した時に採取した、事件を纏める感想としては「それは結局コップの水を溢れさせる最後の一滴だった」という。911以降、ヨーロッパにひたひたと広まっていたムスリム・フォビアに、火をつけたのである。
トルコ&モロッコ出身者が多いオランダでは、出自民族・宗教によるコミュニティ形成すら認めないフランスとは違って、公費負担によるイスラーム学校が次々と設立され、隣国ベルギーなのから越境入学者もいるという。商業的合理性を重視し、宗教に対しても多文化政策をとっており、新聞・放送といった分野にもムスリム系メディアもあり、リベラルな気風が定着していた。が、それが逆に作用した。個人主義が極まった相互不干渉による「我関せず」相互無理解なまま、自分たちが奉信するリベラル=「表現の自由」の名のもとに、メディアではいくつかの「風刺画」を再掲載したのである。また、2004年、問題表現の多いクルアーン風刺映画を作成したテオ・ファン・ゴッホ監督が、モロッコムスリムに惨殺さるという事件も起きた。映画は「ムスリム女性解放リーダー」とされたソマリア人女性議員が台本を書き、ムスリム女性がいかに父親や夫をはじめとする男性に虐げられているかとういう内容で、虐待と忍従生活を語る女性は、胸から下はシースルーの全身ヴェールという欲情的な扮装であった。これはハーレムの「オダリスク」のステレオタイプを喚起させたものといえよう。
一方、オランダと並んでもっとも移民に寛容な国として捉えられてきたイギリスは、北アイルランド紛争を抱えて多文化政策をとっていた。そうした経過を踏まえて、マスメディアも「風刺画」掲載は見合わせていた。が、しかし、失業と階級格差はその「寛容」*1を超えており、2005年7月にロンドンで同時多発テロが起こり、社会は一気に閉鎖化に向かっていった。イラク戦争に積極参画したブレア政権は、テロとイラク戦争は無関係だとしながらも、ムスリム移民のコミュニティを穏健派と過激派に分けて、抵抗するものは監視・摘発・排斥する分割統治を開始した。
ドイツでは、いくつかの新聞が「風刺画」を再掲載した。「西洋では風刺が許されており、神を冒涜する権利もある。民主主義とは、言論の自由を具現化したものである」とヴェルト紙が論評。当初ドイツジャーナリズム同盟は、報道倫理に反すると批判したが、一転して「掲載は議論の機会を提供するものであり、一番初めに掲載したデンマークの新聞社とは『差異化』されるべきである」と主張。
さらに2006年ベルリン・ドイツオペラが、演出中にキリストやブッタと共にムハマンドの首がさらされるシーンのある、モーツアルトイドメネオ』オペラの上演中止がこれに輪をかける。そのことをメルケル首相が「自己検閲だ」と批判し、文化メディア大臣も「表現の自由という民主主義の文化が危機にさらされている」と議論が沸騰した。
しかし「ベルリンのドイツオペラがモーツアルトの『イドメネオ』を上演しようとしたときに、演出でムハマンドの首を切ってさらした。これに反対したイスラーム組織はベルリンで2つしかなかった。我々は反対した。他の組織は、どうせ反対すると何かされるだろうと思って黙ってしまった。黙ってしまう方が多数派になると、ドイツ側では黙っている方が正常で、文句を言ってきた方が過激派だということになってしまう。今、そういう状況に追い込まれている。」と、抗議の当事者であるベルリン・イスラーム連合IFBのメンバーはコメントしたという。その事件の経緯を追った小山香衣は、「ドイツ社会は『イドメネオ』の上演中止にせよ、ムハマンドの風刺画にせよ、それに対するムスリムの反応をみることで彼らが「穏健」であるのか「過激」であるのかを判定する「踏み絵」として利用したのである。」と指摘する。
2006年9月、今度はキリスト教の総本山、ローマ教皇ベネディクト16世が「ムハマンドがもたらしたのは邪悪と暴虐だった」と言ったレーゲンスブルク大講義が騒動となる。教皇は「誤解を受けたことは遺憾であった」「相互に尊敬の念をもって、率直で真面目な対話を行いたい」とは声明をだしたが、謝罪や発言そのものの撤回はしてない。そして翌日「ヨーロッパ以外の地域で、キリスト教がこれほどまでに、その歴史と文化に影響を与えた地域は他にない」「EUの拡大やEU憲法についての議論のなかで、EU内の国家や国民にとってのアイデンティティと精神的根源は何なのかについてはつねに問われてきた。ヨーロッパ『全体』にとって、最も確実な根源は、歴史およびキリスト教人道主義の伝統によって、この大陸において培われてきた共通の革新と諸価値の中に見つけ出されるべきである」「(EU内の)国家は西欧思想の根源とキリスト教精神によって養われてきた『愛の文明』の根源について、子供や若者に教育する義務がある」と『共通の革新─EUの根源』という声明を出し、その2日後に「注意深く私の講義を読んでもらえれば、中世の一人の皇帝によって語られた否定的で論争的な言葉は、私の考えではないことは明らかである」と講義に触れた。発言に対して謝罪したり撤回することはできない神の代理人だる教皇を頂点とするカトリックは、教皇発言は常に教会全体によって公認されることとなる*2
この騒動については以前書いたがid:hizzz:20060921、この講義のどこがマズいのかといえば、ヨーロッパあるいは世界に於ける対立・抗争状況で、キリスト教暴力やイスラームにおける信仰と理性を語らないまま「ジハード」に触れ、宗教における「暴力」と「理性」の対立を一方的に語ったからだ。そのような例の挙げ方の講義を要約してみれば、「ヨーロッパやキリスト教世界は理性と調和した信仰の伝統があるが、イスラームにはそれがない為に暴力的になる。そうでなく西洋伝統的な理性で話そう。」と、受け取られても仕方のないものであるからだ。

イスラームとは「帰依」を意味する。イスラーム学は、アッラーに帰依する、つまりその御意志に適って生きるために自分は何をなすべきか、を問題にしてきた。言い換えれば、「人は何を要求できるか」との「権利の言語」を語る欧米の人権思想に対して、イスラームとは「人は何をなすべきか」との「義務の言語」に基づく教えなのである。そして今回の風刺画事件へのイスラーム世界の対応は、イスラーム的反応というよりは、むしろ欧米的反応なのであり、イスラーム的な「義務の言語」の準拠枠が失われ、「権利の言語」を教える欧米思想が広まりつつあること、つまりイスラーム世界の欧米による文化植民地化の深化を表現しているのである。
言論の自由などというものは実はどこにも存在しないのであるが、自分たちには「言論の自由がある」との「幻想」は確かに存在する。この幻想の存在が、預言者風刺画事件の間違った認識、すなわち言論の自由と宗教の尊厳の対立、との誤解を生み出しているのである。
欧米には「言論の自由」を享受しているとの自己イメージが存在しているが、それは幻想に過ぎない。いかなる社会も言論のさまざまなコードを有しており、「自由」と表象される範囲もまたそれぞれに異なる。欧米社会とイスラーム社会との間でも、言論のコードは異なり、それに応じて「自由」と表象されるものも異なる。存在するのは「自由と抑圧の対立」ではなく、「自由、抑圧と表象されるもの、それぞれの社会での間での相違」である。イスラームの価値観と「言論の自由」の対立、といった誤った構図で問題を誤解しないためには、我々は「自由」の幻想を捨てる必要がある。

田中考

結局、「表現・報道の自由」主張ばかりに囚われて、人種差別反対主義に対するコミットメントとそこから派生する人間社会に対するコミットメントについての表明をしなかった=相互交流なしの一方通行だっために、侮辱的であるという印象をムスリムに与え続けて亀裂をより深めたということである。

*1:日本語の「寛容」と英語・オランダ語では、元来その示す意味が違い、相手への敬意とか温かさ的なことは含意されておらず、許容=耐えられる的ニュアンスの語彙だという。

*2:とはいえ、すったもんだしたホロコースト否定した司教の破門解除問題では、結局陳謝することとなる。>http://www.asahi.com/international/update/0312/TKY200903120254.html