ホロコーストと比較される、ムハマンド風刺画事件

南アフリカ聖公会大主教デズモンド・ツツは、風刺画に対する憤怒を「その動機に対してではなく侮辱に対する反応」「起きたこととその後の余波がより深刻な病気な症状として見られてきた。もし関係が違ったものであったなら、風刺画は掲載されたなかっただろうし、掲載されたとしても異なる形で対応されただろう」「人々の信仰や習慣、宗教を侮辱することは言論の自由ではありません。これはイスラーム世界に限ったことではない。私たちは他国民の信条や宗教を、自分がそれを信じるかどうかに関係なく尊重しなければなりません。それらを信じない場合や認めない場合には、討論や知的な取り組みによってそれらに異議を唱えなければなりません」と、表現の自由にも義務が伴うことに注意したうえで、「題材がホロコーストであり、ユダヤ人が侮辱されたと考えられるような方法でホロコーストが扱われた場合、デンマーク政府や国際社会の反応は現在論争の的になっている風刺画に対するような反応となっただろうか」、北アイルランドプロテスタントカトリックオクラホマ市の爆弾テロリスト、そしてナチスにさえ「キリスト教のテロリスト」のレッテルが貼られなかったのは何故なのか、と疑問を投げかける。「クー・クラックス・クランについて考えてみてほしい。彼らは十字架を自分たちのシンボルにしており、他者に対する嫌悪を伝搬させ、リンチを奨励している。にもかかわらず誰かが『キリスト教がいかに暴力を奨励しているかという例だ』と言うのを聞いたことがない」と語る。
2006年2月、イランの『ハムシャフリー』紙は、「西側諸国は言論の自由を、アメリカやイスラエルの犯罪、ホロコーストにも拡大するだろうか。それとも言論の自由は、宗教的尊厳を傷つけることが唯一の目的だろうか」と、西欧における「表現の自由」の二重規範を問いかけ、「ホロコースト」を絶対視する西欧&イスラエルに対して、「ホロコーストの風刺画」コンテストを世界に呼び掛けた。アフマディネジャド大統領はこれを全面的支持して、「ホロコーストは神話である」と発言した。
無論、これに対してイスラエルは猛烈抗議した。が、しかし俳優兼舞台監督アヤル・ズッスマンは、イスラエルの各メディアに「デンマークの新聞社がイスラーム教徒を愚弄する風刺画を掲載し、騒動を引き起こした。イランの新聞社はホロコーストの風刺画コンテストを実施して対抗した。今日イスラエル人のグループが、イスラエルにおける反ユダヤ主義風刺画コンテストの開催を宣言する。」という開催宣言文を送りつけた。「ユダヤ人こそが最も反ユダヤ主義の憎悪に満ちた風刺画を書く能力があることを、世界に示そう。イラン人にホームグラウンドで負けるわけにはいかない。」と自虐ネタで対抗したのだ。2006年2月「イスラエル人による反ユダヤ主義風刺画コンテスト」を主催し、世界各国のユダヤ人から100点を超える応募があった。
Israeli Anti-Semitic Cartoons Cintest http://www.boomka.org

表現の自由」とは、「信仰の自由」とまったく同様、表現(信仰)「する」自由と、表現(信仰)「しない」自由の両者抱き合わせで初めて成立するものである。確かに風刺画家には、一部の人々において表象が禁じられている対象を描き出す自由がある。しかし、描かれたものに対して当事者から抗議の声が発せられた場合、その種の抗議そのものを「表現の自由」に対する脅威、挑戦とみなし、「ムハマンドがテロリストであったわけではない」という自明の理にもかかわらず、自由と権利の名の下にことさら表現を続け、転載を断行しなければならないと考える人々は、もう一方の「表現しない自由」を自ら進んで放棄していることに気づいていない。「人が何かを表現しなければならないという義務感に駆られる時、表現の自由なるものが一体どこにあるというのか?」(ボレロ)。事実『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌の編集長ジャン・ダニエルのように、自誌に風刺画を転載「しない」ことによって「表現の自由」を健全に保とうとする姿勢を選択した人々もいる。他方、「相手がそれ(ムハマンドの風刺画)を表現の自由と呼ぶのなら、こちらはこれ(ユダヤ人惨殺の否定)をもって表現の自由を行使しなければならない」と考える人々の側も、いわばポトラッチ的に自らの自由(真実探求の自由、歴史解釈の自由)を破壊していることになる。こうして「表現の自由」とは、敵対感情の競い上げから二次的に発生する「表現の義務」によって足下から掘り崩されていくものなのである。

ナディーム・アミーン