「御しやすいフェミニズム」としてのシスター崇拝

前にid:hizzz:20030529でカキコしたとおり、最近のフッて湧いたような岡崎京子ブーム。
椹木野衣『平坦な戦場でぼくらが生き延びること―岡崎京子論』ISBN:4480823433、なんでこんなに思い入れたっぷりウエッティなんだろかとう゛ぅ〜っと来てたんだけど、河出書房で『文藝2001年秋 特集岡崎京子』が出てきて、うげぇ〜と、それが『岡崎京子―総特集 KAWADE夢ムック』ISBN:4309976271、うぎゃあ〜と、岡崎京子ブームにすさまじい違和感を感じていた。いや決して岡崎のマンガ、作品自体がひどい訳ではない。最大のしこりは、なんでその活動当時でなくて今、今ここで岡崎を此れ程もちあげなければならないのか、である。岡崎的なるものをもちあげて隠そうとすることが絶対ある、そんな欺瞞を生理的に感じてワタクシはうめいていたのかもしれない。
id:sayuk:20031025#p1で述べられてるように、岡崎を理解(=解読法のお勉強)することによって所謂90年代フェミニズムを終了にもっていこうとしたってことはあるだろう。それも、フェミを肯定しがちなインテリ「男性」に拠ってだ。サイアク。
じゃあ、なんで岡崎がヤリ玉にあがったのかといえば、id:sayukさん曰く「彼女を巡る視線は結局はデビュー時の自販機本の頃と同じレベル」だったからだ。それは、自販機本世界をヌケだそうとして「ゴダール」やら「資本主義」やらといった知的ぶりっこをやたら提示する、そこに多くの男は、岡崎の知的世界(=男社会)への盛んなる媚としてキャッチするのである。それがいくらカゲキであろうとも、こちらに兆発しているその分だけ自分達がパーミッションを付与するスキがある。裁量権はこちらにあると安心する。知的スノッブ=男言葉を装った分だけ、露出主体はむこうにありただただそれを無責任に享受できるという自分達に高尚な言い訳付加価値をもたらす都合のいいエロ、自分のレベルに合わせて「解りやすい甘言を弄する」自販機の媚とソレは寸分違わないのである。作品自体も実際、ヌケだそうとしてヌケ出せない女というストーリーが多い。だからいくら擽り兆発されても、そっちでやってる分にはヨゴレる必要のないこちら側で眺めていればいいダケと連中は安心なんだよな。フェミを岡崎を履修して女を理解した、だからもう考え悩む必要なし、岡崎=「そういうコト」に「女なるもの」=自分以外の世界を押込めこれにて終了、これで全世界を把握済と。それが、上記したナイト(=保護/理解者)ぶりっこしたフェミを装う男根主義者達のセンチメンタルな岡崎賛美なんではなかろうか。
id:hizzz:20031010でちろっと触れたけど、社会の要請する若く美しく賢くエッチという「オンナ道」を履修する(自分達=男社会のいいなりになった)御しやすい良い子であると男が見切り、そうして今現在、事故により執筆してない(=反応し変化することがない=侵食しない距離を保てる)から、いくらでも妄想をかさねられ使われる、いい玩具なんではないか。そんなトコからヌケだしたくて堪らなかっただろうに、ソコに引き摺り落されてるような感すらある。岡崎が解る程にスノッブでイケてるヲレ様達、だからヲヤヂではない永遠に若いと言いたい連中に。そういう現象を今の岡崎は、どう思ってるんだろうか。

サブカル

80〜90年代も岡崎も、サブカルを纏うことによって隠したものがあるだろう。サブカルを気取ることでメインカルチャーから逃避するという、世界に対する我の「自信のなさ」である。それは桐野夏生『グロテスク』ISBN:4163219501るまいにも現れてる。その世界と我との関係を、葛藤しつつもその関係の中でなんとか渡りをつけていくという作業よりも、ありたいアタシなイメージ=理想を全肯定しちゃいそれを装うことで、イキナリそれまでの世界と我との関係をなかったコトにしたのである。
バブルってそーゆもんだった。バブルにシニックなスタンスをおいてるかのようなサブカルだって、オルタナティブなそぶりをしてたけど、そーゆもんを立派に補完していた。
オルタなんかドコにもなかったけど、トンガリスノップはあるフリを必死にしてた。ま、勘違い、幻想なんだけど。けど、「不思議ちゃん」とか「エコ系」とか「癒し系」とかそういう今までの過去はなかったコトにして自分に血道をあげたい思い込みな自己愛系はいまも沢山いるけどね。いくら「反資本主義」とかいっても、コンビニエンスでたんなる横着だよな、いってるコトとやってるコトが違うぞソレって思う訳でありんす。
そういう手合が岡崎チックなものを絶賛しても、それこそ自動資本主義販売機レベルでの愛玩商品として陵辱されてるのと大差ナイのでは。

サブカルの終焉

岡崎なるものの総動員集大成のような椎名林檎が売れて消費してしまったことでサブカルの終焉は否応もなくハッキリした。ナンシー関が見抜いたように、どんなコスプレをしようとも椎名林檎は決して顔を汚さない。というか汚せない。やたらバブルバスにつかってる岡崎作品にでてくる女達のように、きれい=ピュアな自分でいる為にはグルーミングはかかせない。ヤマンバ娘/汚ギャルのように何日もパンツかえなくても汚れてもスーパーフラットでいる、男おいどんのような自信を獲得していない。
そういう限界が確実にあった。その部分において致命的であり、中途半端なのである。そのスキを世間=男社会に取込まれる。こいつは安心して遊べる過激な玩具だと。そういう意味に於ては上質のエンターテイメントである。むしろ、アンダーグランドという汚れたふりをした正統派アイドルである。生な動物的自信もなければかってのアンダーグランドがひきずる陰もその心にはない。すべてがフリという虚構。そういう立ち位置である。むしろそういう「構造」を誇示する風でもあった。「構造」って心を隠すためにはつくづく便利な言葉だ。
パーソナリティとはペルソナである。よりコントロールしやすいカルチャー仮面をかぶりつづけることであるとし、その表面を構築していけば林檎的なるものが出来上がる。そのために色んな世界=カルチャーはなによりもそんなアタシの為に存在していたのだという妄想、それは虜になる。アンダーグランドな過激で兆発しつつも絶対拒絶はナイ林檎という構造は、自他主体からの逃避に夢中になってる連中にウケた。
それ以降、中央線沿線でうごめいてるアングきどりは全てお終いとなる。盛り上がってるようでいても、もうそこにはノスタルジーしか残っていない。ギャルでいられない林檎のように。アンダーグランド風が売れる=メインに躍り出るということは、サブカルという主体を建前にしつつも本音はメインに求愛しつづけた欲望をひた隠しにした資本主義カルチャーの貧乏な女であったという身も蓋もない事実を体現したということだからだ。

自己愛

通常?幼稚な全能感は大人になったら無くなるものとされている。大月隆寛曰くいまの成人年齢は30歳だそーだが、実際はもっと延びてるのかも知れない。80〜90年代の大人の定義はすごく歪である。全能感的なものをもってするといつまでも子供であり、サブカル的なものをもってすると子供にして既に大人であると既定してしまう。岡崎の作品にもそのような主題があふれている。さて、その子供にして既に大人だから「終了」としてみないようにふれないようにしていたものはなんだったのか。
中島義道『愛という試練』ISBN:4314009276原田純『ねじれた家 帰りたくない家』ISBN:406211836X。中島は50代、原田は40代半ばであるが、それぞれ成育過程に於ける親/身内の大悪口大会を経て「人を愛することのできない自分自身」にズタボロになってたどりつく。親を乗り越えて自己を確立するというプロセスを経ずに生きようとして齟齬をきたしたことに気付いたらしい。中高年になって「親と同類だったアタシ」に愕然として書かずにいられなかったというか、その年齢になってやっとこさ冷静に振返ることができたって感じか。
「自己を確立する」という近代プロセスふっとばしたんだから、あとは幼児のままに無闇ヤタラと「愛してくれ」封建時代しか残らないのは当たり前、ありがちなんだけど。どうやらそういうコトには、近代的教養=お高尚な哲学や反体制運動は役に立たないどころか、邪魔ばっかしてるようであって…(苦笑)。
サブカルは、乗り越えることをあきらめて別の自分たちの世界をこさえて分散化/多様性ということで乗り越えたこと=ポストモダンにしたんだけど、結局、近代以前のソレは歴然として未解決のままにあって、今、癒しとかいって目先を誤魔化すか、解ったと自己既定すると世界がくずれるからあくまでもカルトに妄想固執して視野を塞いで鬱いで進むことも戻ることも出来ないトホホな始末。コココロ系のように無論、そゆ不安定な積木細工がグズグズになるのを、なおも乱暴に取りあえず積み上げようとするパワフルなコワレ系もいる。
そんなひとには、この2冊の本が吐き続けるベタベタなロマンとリアルの背中合わせはあまりにもイタイ、イタすぎて滑稽でさえある。20世紀はとうに終わっているのに、今だ近代(モダン)ですらなかったという現実。しかし、いつまでシカトしてすっとばして、行ったきりにしてられるのかな。ご同類。

愛と理解

人生振返ってよくよぉ〜く考えてみたら、親の悪口しか言いたい言葉=本音=自己がなかったというのは、まことにショボすぎるんだけど。id:hizzz:20030607にカキコしたように体制は母性と育児神話で反体制はサブカルで、親を乗り越えて自己を確立するというプロセスをこのようにして巧妙に回避した。
回避して手に入れたものはなんだったんであろうか。こうしてバブルはじけて、手にしたという幻想が壊れて始めて、やっとショボく身の蓋もない生身に気が付いたということがあるのかもしれない。しかしなおもそこでACという被害のカタチをいつまで装いつづけていられるのか。そういう自分はいつのまにか中高年になり子供も出来たりなんかして。今までの親とは違う「友達家族」というオルタを装い親に反抗し、「親権」という権力を見ないようにしつつも、こんなに子供も自分も解ってる謙虚な自分という在りようを子供に「解れ」と強制するパワーハラスメントぶり。
しかし肝心の親にも子にも理解されない愛されない、からまわり。のっぴきならない状態に於てもなお「好きに生きればいいんだ」と回避しまくりで無責任なクセに関心はあるという「共感」ベクトルで口先だけで介入し理解したり苦悩したりする自分に酔ってる風で、決して他者を理解するというよりも他者を取込んで有無をいわせず自分を解って愛してほしい欲望にみちみちた鬱陶しい存在だからだ。
しかし当の本人は、どうしてそうなってしまうのか理解されないということが解らない。それがなによりも耐え難い苦痛。他者と解りえないことを自覚するのが自立だったりするのに、他者とか自立ってどういうことかさっぱり解ってないから反抗や抵抗しつつも結局は「愛と理解」を他者に要求しつづけて当然と思ってる。そう思い込んでいるからこそ、不可能なものを欲望し獲得に失敗しつづけているという欠落感ばかりたまってるから不幸で苦痛なのだ。本当に欠落しているのは自己主体なのにもかかわらず。
それって思想的立場の前後左右上下関係なく、「戦前」という親をなかったコトにして回避し続けている「戦後民主主義」、この国のドタバタな在り方プロセスさながらなんではないかな。