対抗のための退却

前回カキコid:hizzz:20031104した、河内長野の大学生家族殺傷事件、けっこう後ひいてる。
高1のWeb内容を大々的に報道したのに続き、大学生が犯行直前に風邪薬でキメようとしてたり、精神鑑定もやるみたいだわ、「いけないことをした」と高1がいったとか…。で、blog上でも、色んな説がにぎわってる。network styly *さんとこで纏めてあるけど。
某所で皆の当該コメントが長げー長げーといわれてるけど、こうしたことをひとつひとつ考えないマンマ、「安直」に「便利」に纏めようとすると、高1サイトな洋式美とか、今回のような犯罪劇になっちまうしなぁ。
…と、いつにもましてグダグダとユルくカキコしてみる。

ゴスロリ

ゴスロリ」が今回の事件の目玉(絵)であるのでさかんにそのファッションを紹介してる。そしてTVワイドショーでは、顔だししない沢山の少女達に替わって?雨宮処凛がカメラ前で一回転して御披露目をしている。が、どうしたことか当の雨宮の肉声は放送されない。当人ノーコメントなのか、局側がコメントさせないのか、ゴスロリファッションのライターとしてしかコメントされない。まさに『生き地獄天国』ISBN:4872335430 か?腰引けてんのかビミョ〜な扱い。ま、ほんとはわかりたくもないんだろーけど。

WEB日記を押収

ちょっと探せば簡単に見付かるサイトの存在&内容を、NHKも含めてさんざっぱら報道しまくってリンクやミラー作られてしまった後に、「WEB日記を押収する。」って、ナニってかんじ。で、TV報道される絵は、モニタとかをゴソゴソと車に捜査員が運んでるというシロモノ。物主義。言葉の概念を実行に映すとそうなるのか。しかし、当人達がパソコン所有してないで、ネットカフェやマンガ喫茶とかから、はてなみたいなタダ鯖にカキコしするだけで媒体物に落したデータを手元に持ってない場合は、どーするんだろーか?
自由と引き換えのリスク&コストは誰が負担するのか?なるほど、id:hizzz:20030617 でカキコしたような神経質な基準をあらかじめ弄するトコがでてきざるを得ないと。そういうオドシの為か、警察。

マスコミ

高1サイトの報道の仕方もそうなんだけど、こんなに安易に「殺人予備罪」とされたのに、たいして反論もせずにゴスロリ癖ばっか騒ぎ立てるマスコミ。「反権力」「市民」「弱者の味方」と、メインに対する「対抗」を自認しているトコが、実は一番権力(マチズモ)つうのが、ネットという匿名集合体であばかれつつあるという事態。そしてそんな自分の絶対正義という立位置、アイデンティティを死守するために、眼下の(絶対に認めたくも分かりたくもないから)ワケのワカラナイ存在をことごとくけ散らす…なんてのは、そして、そんなふるまいをまったくつゆほどにも疑いなく学習しているさまは、、、ああ、これは、いつもドコかでみた道。。。

サブカル劣等生

犯人達は「サブカル劣等生」「不思議ちゃん」であるという説。
確かに犯罪にいたる経緯は安直なんだけど、その「安直さ」がいろいろ深いんだよね。その「安直さ」は、誰しも多少なりとも共有せざるをえないものだから関心を呼ぶ。

オタクも不思議ちゃんもある種同様の変容をたどっていて、「対抗」→「対抗のための退却」→「ただの退却」というパタンを反復しているのではないか
「ウソをウソであると見抜けないと(掲示板を)使うのは難しい」とリテラシーをいったのは、2chひろゆきだが、サブカルも又しかり。最初はシャレだったのにそれがマジになったときの決定的な欠落にどうしようもなくなる。シャレというのは、先に巌のような王道(カルチャー)があって初めてなりたっていたものであるということ。その王道が崩壊してシャレといううわばみしか残っていない残骸をマジに学習して血肉としようとする、よいこの喜悲劇。
さんざん言及されてる「サブカル」ってことでふれておきたいんだけど、この事件で殺された母親42〜3歳(報道によって違うのだが1960年生まれということか)、この母親がどういうひとだったのかはまったく報道されないが、この年齢は戸川純と同じサブカル第一世代であるということだ。70年で「対抗」が終わって、「対抗のための退却」「ヘンタイよいこ」の80年代。それは『グロテスク』を背負った女id:hizzz:20031010だったりもする。そういう時代に育った親に育てられた子供。サブカルの終焉は、id:hizzz:20031027にカキコ。しかし、他に方法論なくそれをひきずってるひとは、実に多い。「無垢」だの「無辜」だの「イノセント」だの「ピュア」だの…サブカル/オルタの特徴であって、そしてそれはかっての「反体制」から引継がれた「市民運動」のココロでもあったりする。女であること=反体制なアタシというアイデンティティの持ち方をしてしまった一部のフェミ(とうとう退陣に追い込まれた土井社民党)の行き場のなさとか…(涙)。
いま80年代がブームだそーで、これにはムムっと来ているワタクシである。前回もカキコしたんだけど、ただ単に犯人たちの「安直さ」をなげくのでなしに、そうした親を含めた「若さ」の礼賛、「対抗のための退却」が、もう退却しようもないトコにいっているという現状。メインカルチャーをシャレのめして崩し倒した後は、なんもなかった、と。事件をアダコダいうのなら、そういうコトでOK!としたのは自分であるのにもかかわらず、こういうトコに絶対触れないしたり顔でシカトする「大人」な皆様は、んっとにもぅ〜だ。子供たちに思わずヤッちゃえって煽りたくなるよ。

怨み節

キルビルがブームだ。中でも挿入歌として使われた梶芽衣子の再評価?が高い。あそこでつかわれている70年代初頭の仁侠モノが「カッコイイ!」ということで。リアルに70年代をすごした者としては、単純に「カッコイイ!」といえないなんともいえないニガミを感じる。60年代の仁侠ものが「義理と人情の板挟み」モンだったのが、70年代には「仁義ナキ戦い」に変わる。復讐や怨念がその「戦い」の全てなのである。んなガチンコに疲れた人々は『同棲時代』ISBN:4575720119ージックといった追憶な方向に「退却」を始める。(同棲時代は、美大いってたイラストレーターの卵が主人公)そういえば、評価基準が「カッコイイorダサイ」になっていったのも、80年代からなんではないかな?
勿論タランティーノは単純に様式美としての仁侠映画を賛美してるんだけど、そうした時代の重さ=リアルをすべてとっぱらったところでの国内でのブーム「エキゾチック・ジャパン」というのは、(誰のナニによってなのか)都合よく編集された記憶をチョイスして、それで自分達のルーツの把握に失敗してしまうのでないかと杞憂してしまう。それはそのまま、高1のショボイ様式美と同質だからだ。過去を都合よく編集してしまうツケが、「退却」先の無い未来=子供にいってしまってるんじゃないかと考えるからだ。

昭和50年代

「被害を国に認めさせる」とか「男社会に女が提起する」というカタチとるかぎり、いくら闘争や紛争しても、「問題」は決して「思想」にならないんだよなー。70年前後の重い復讐&怨念から脱サラ/ドロップアウトブ〜ムが浸透してきたのが75年位からなのかな。
日本人の夢と憧れを達成した最後の人物山口百恵の引退と、ぶりっこ松田聖子のデビューで迎えた80年代。郷ひろみがヒロミGo!化しはじめた「エキゾチック・ジャパン」は1984年なのか。米国内でリーマンがCIAに捕まった東芝機械COCOM事件が明るみになったのは87年。
1人千ドル使えつってもぉなーーーーつう、うすぼんやりと、使う意味も動機もナイから笛吹けど踊らず。そんだけ日本人ニブかったから、85年からのおとり捜査でハメたちうことか。これで日本の信用は地におち、プロジェクトX的「技術立国/輸出立国ニッポン」の根幹瓦解。欧米技術をタダ取りしてナマイキに共産圏とかで儲けてんぢゃねぇ、富の再分配、タメこんでないで金ダセの実力行使。反日の嵐。産業界大ショ〜〜〜〜〜〜〜ック!
前期と後期で別モンで、80年代の内に80年代を懐古するとゆー状態に陥った、と。だったら米国は借金してまでバカスカ買うなよ>日本製品、といってもムダか。。。したから、90年前後に始まったバブルはもはやソコしかない、破綻の先送りに追い込まれたつートホホな面が。
それをなかったコトにしときたかった連中と、シカトOK!ってハナから思い込んでいられた連中との「感性」の相違はあまりにもデカイが、(それが世代観つーのかもしれんけど)つねにトグロ巻いてた「昭和」つうものをとっぱらった世代ブ〜ムで世代を把握するのは、かえってワケワカメかもなー。