整合性へのアプローチ

id:essaさんがid:hizzz:20040516#cでのid:Bonvoyageさんの「みんなって、あんたと、あと誰?」を引きつつ、技術と倫理の対話としてTCP/IPを引いて「プロトコル技術」実際そのものを考察なさっている。
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20040517
また「予測される多様性には、効率的な解があるので、多様性と効率は両立できます。両立できないのは、「不確定性に備えること」と「効率を最大にすること」ですね。」(id:Bonvoyage:20040520#c)ともコメントされてる。
そして、Bonvoyageさんは、「もし本当にみんなが我慢しているんだったら、システム的な問題があるかもしれないね」(id:Bonvoyage:20040520#p1)とそのとっかかりとして「システム論」についてのシリーズ考察を始められた。(id:Bonvoyage:20040521以降)刮目して拝読したい。

倫理主義

最近ではid:hizzz:20040512#p6でカキコした多様価値観の整合性をとる方法論は、実は前から知人にはいってたりしたてんだけど、どうもリアルフェイスのフル対面(ダイレクト・コミュニケーション)が正しいという価値観にあるひと程、インターネットやWeb発達の根幹である「プロトコル」という技術用語がピンとこない…てゆーか、解りたくもナイ。
人間の都合や実感情と別にシステムが動くからこそ、コミュニケーションの多様性が保てるというハナシid:hizzz:20040223#p2なんだけど。どうやら、(顔のみえない)テクニカル&プラグマティックに人間関係(自分を)を把握されること自体に強い生理的不快/嫌悪感があるようでし。
Bonvoyageさんが指摘された「みんな」=世間というカタチを取るシステムのシバリid:hizzz:20040324、id:hizzz:20040424#p4は、恣意的倫理をみんなという多数を装うことによってその恣意的主体(いいだしっぺ)かくしをして自己責任解除をしつつ表層的に整合性をもたせる、支配テクではないであろうか。

社会システム論

もともとワケワカメな複雑性を縮減してコミュニケーションを可能にする意味を与えるのがシステム論の意義だとはおもう。それは厳密に論理構成しようが、ドコまでいってものハナシである。で、あるからそれこそがシステム論者の強みである。
多様性を謳歌した80年代のハテのオウム事件でかろうじて強度を保った論説も、社会システム論の持つこうした特性故であり、それが為に「宮台信者」といわれる思想ヲタが増幅した。負けない為のシニシズム&ロマンとして。
ところががネットという膨大なの絶え間ない流動集合体により、人文学的一点透視図的論=マトリックス結晶化は、立てたそばから全て脱構築=消費瓦解して、タコ壷化となる。
そうするとそれをコントロールしようとしてか「自己相対化の運動、それ自体がシステム化している現代社会の行き着く果てが道徳や倫理だ」みたいな理論社会学がいわれだす。システムのハテに倫理だ、と。北田暁大 『アメリカ的プラグマティズム:リベラリズムと<帝国>』ルーマンとか使ってそんなカンジに見える。モラル(感性)をも射程距離に入れたことで「社会学帝国主義」に益々近づいているのではないのかなぁ。はたしてそれは健全な理論に発展するんであろうか?ひどく人を選ぶ理論に発展する恐れのほうが強いんだけど…。
勿論、選民思想になんないよーにあれやこれや「あえて」「あえて」バームクーヘンして配慮しつつ細心の注意を払って論理だてしようとする試みが実際的でなくって枝葉末節に思えて、最後の稲葉さんの質問みたいな「そんなにややこしい話なんでしょうか?」と疑問におもってしまうのだよな〜。

コントロール願望のハテ

均一化したモジュールとしてひとをカテゴライズしがちなシステム論が、感情的に嫌悪感をもたれるのは今に始まったことではない。
歯止めの不在こそが近代〈個〉成熟とかいってガマンしてたけど、リベラルだのリバタリアニズムだのコミュニタリアリズムだのの、アイロニーのナワでガッチリと締めつけられて、「AならB」id:hizzz:20040424#p5でどーにも行き場も退却場もなくって「降りる自由」とかいってるしかない。
いやー、だったらその「AならばB」論自体を見直すもしくは作り替えればいーと、ワタクシは単純におもうんだが、そーはならない。
多分それをなんとかしようとして、そゆシステム論者が「あえて」弱者視点を足して配慮を見せるというトコ(バームクーヘン化)が、学際では新しくもありウソ臭くもあり=過去の賢者達への過剰配慮(記述的意思決定論=自己利益優先id:hizzz:20040516#p4)しつつポジション強化、ってことかなー。
快楽主義とか無頼派とかのシニシズムもひっくるめて解った風を装いながら、システムは道徳(美学=ロマン)コントロールが必要だというシステム強化論は、殆ど宗教の論理なんでは。そのシステム論で主体はバームクーヘンされていつも隠されてるメタを裁定する自己は、強烈なエリート意識(特別なアタシ=主体)と表裏一体であること、そういう共犯性ってのに自覚的でないと、かなりヤバイ。<まなざしの問題id:hizzz:20040411
政治(システム)を美学(文化)化するファシズムだろーが美学を政治化するマルクス主義だろーが、20世紀の歴史が証明した通り、シニカル&ロマンのハテは、全体主義への道なんだもん。