傍流エリート

↑は前回の「傍老族」id:hizzz:20060219のワタクシ的解釈より。
さて、「ニート」つーても、若年低学歴無業未成年(中卒/高校中退15〜18歳)と大学進学経験無業成年(大学中退/大卒/院卒35歳以下)とでは、当人のインフラも雇用市場ニーズもまったく異なるid:hizzz:20041224#p3。そこには明確な経済&学歴(人的資本)での階級差(低所得ー中/上流階級)がある。にもかかわらず、何故か「ニート」を言上げしようとする人たちは、自身が学卒又は大学中退クラスであるからか、ひとつのカテゴリーによって物事がフラットになる危険性に、あまりにも無頓着である。それがなんであれ、大学進学率が50%を越えたからフツーだ的意識が、ニート談義に夢中な大学進学経験者達の中にあるとしたら、これは、あまりにもデリカシーを欠いたごう慢な意識だといえる。*1
一年以上前にカキコした危惧id:hizzz:20050104のとおり、今や「ニート」は「アタシさがしな学卒無業成年」を指し示す言葉として流通し、それはまさに90年代の「アダルト・チルドレン(AC)」でいわれたのと同じ意味と化している。但し、90年代「AC」が対象としたココロ/メンヘラー系は殆ど10〜20代女性の性的対人関係=居場所問題だったのに対し、現在の「ニート」は性別なく、生業=居場所問題となっている違いはある。
id:svnseeds:20060222さんトコで書かれてるように、リフレ政策による昨今の景気回復の流れにより、今日明日の糊口をひさぐ若年貧困層が多少なりとも一息つけたとしても、それとは関係なくニート論議は別な方向に適用されて、拡大。かくして経済&人的資本インフラなき若年低学歴貧困未成年というニート原点存在は殆ど顧みられない私文学的展開でのみ「ニート論」は盛り上がる?大不粋*2
当のフツー=中流意識な大学進学経験無業者は、正統エリート→傍流エリート→低学歴無産階級ていうヒエラルキーの中間っていう意識なんだろうな。しかし、自らのエリート性(中身)は実は虚空のものでしかなく、「学校暦」という外形によってかろうじて、「(傍流)エリート」性を保っており、その履歴以外は、低学歴無産階級と同等、ヘタすればそれ以下のシゴト能力しかないことが、年功序列&まるがかえ終身雇用から一変した昨今のライルスタイルの多様性重視&バリューアップ成果主義で、自他共に明確になってくる。要は上からも下からもバカにされるが、自身ではどうにもできない。ホンネは正統エリート=「勝ち組」になりたいんだけど、でもバカな低学歴層=「負け組」と一緒に評価されたくナイ。現在はどこにもアイデンティファイできない裸のアタシ。ってことが、一番困った事態ーコジレの原因であろうな。ま、三浦展の例のアオリ『下流社会 新たな階層集団の出現』がエジキにした層とでもいいましょうか。。。
いやぁ、そんな食い荒らされる位なら「便所の1000ワット級の永遠未完の大器なんでぇ〜すぅ」とかでもかまして、サッサとそんなシンドイとこから降りちゃえばラクになるのに、、、とウンコ座りなワタクシはいつもおもう。んだけど、どーも、骨のズイ迄中産階級なのか、一度つかんだ(ような気がした)アッパーミドルな夢=既得権益はすてられない、と。*3

*1:そこに隠された階級差を自説の立ち位置の為に積極的に隠ぺいすることになってはいないかということは、以前指摘した。>id:hizzz:20050129

*2:次の目新しい言葉が来る迄、『「ニート」って言うな!』本の中でsvnseedsさんの興味のない方向でのみ「ニート」枠は、カテゴライスされつづけるってことかも(笑)。ちなみに「労働市場の流動化」 はドラスティックに進んでいる。働いたことのない人がその変化に追い付いてないというミスマッチが、現状なのではないか。

*3:働かないで生きて行く道を「模索」するのは個々人の勝手だが、多くの人にとっては「働かないで生きて行く」よりも「働いて生きて行く」ほうが、スキルもインフラもなくても実現しやすい方法論ではある。

私ブンガクの夢

はい、そんな鬱々としてるオレ様(文系無業者)をくすぐる、『ユリイカ 2006年2月号 特集 ニート 新しい文学はここから始まる』高等遊民。そうそう、それも有り。しかし、文学で身をたてるのは、就職するよりもハードルが高いんだけどなーっと、パラパラを雑誌をめくってると、絲山秋子星野智幸の2人が、見聞をひろげ一発屋で終わらない為に、就職を奨励。ああ、しごく真っ当ですね。とまれ「文学なんか自業自得」@石原慎太郎
一発屋文学といえば、ぬぁんといっても、自己吐露。ココロ/メンヘラー系に多いんだけど、自分語りにものすごい価値をおき、ハナシを聞いてくれる人を求めて、人々の間をさまよっているひともいる。だからといって別に、こゆ活き方を批判してるのではない。中途半端にマスや権威をねらって「傷つく」よりも、細く長く、細かい出会いと分かれの積み重ねの中でドサまわり的に活きていくのも、立派な身の立て方ぢゃないか、と。イキナリ小説!とかの高ハードルにいっちゃうよりも、このような落語的なかたりのつどい輪というほうが、間口はひろいかも。
理系な方には、『解剖男』つーマニアックを極めるといった方向でのかたり口は、いかがでしょうか。

プチクリ

あ、さて、上記のような表現系な夢をかかえてるけど、なにをどーしていいか分からない人には、岡田 斗司夫『プチクリ!―好き=才能!』 公式ページ
まあ、それ一本やりで糊口をしのいでる「クリエイター」も基本はこれだろう。中で、ステーヴン・キングの「才能」についての一説が引用されてる。

才能というのは、研いでないナイフのようなものだ。毎日、ただ毎日書き続ければ、そのナイフを研ぐことができる。人によってナイフの大きさは違う。しかし研いでみないことには、そのナイフがどんな形なのかわからない。小さくてよく切れる果物ナイフなのか。巨大な岩もまっぷたつに切り裂く大ぶりの刀なのか。才能のある・ないというのは単にこのナイフのサイズのことだ。大きな刀なら歴史的な大作が書けるだろう。でも小さいナイフでも、本を買ってくれる人を一晩夢中にさせる程度の作品を書くには充分だ。だからナイフのサイズが問題じゃない。それが本当にナイフか、つまり「研がれているか」どうかが問題なのだ。だから大事なことは、ナイフを研ぐこと。毎日書くことである。

「ヤレば分かるさ」猪木ですな。そして、必要なのは「才能」ではなく、自分の才能と努力を作品の中に定着させる「コントロール力」であると岡田はいう。で、それ=「コントロール力」が結果的に、クリエーター能力となる。確かに、別に「クリエイター」(何度カキコしてもこっぱずかしーカタガキだ)でなくとも、単にシゴトの能力とは、自己コントロールであるといいきってかまわないであろう。
しかしアマゾンの「この本を買った人はこんな本も買っています」一覧は笑える。あはははは。

一人称でモノが言えない不自由

そう、「好き」「楽しい」ソレでいーんである。趣味な生活、ソレ追求してけば。たとえそれが、プーだろうがパラサイトだろうが、誰にナンといわれよーが、あらあらアタシはキンドーちゃんか、寅さんか。人生それでいーぢゃないか。そゆ生態が、キモい変態と呼ばれるのか孤高なアーティストといわれるのか、はたまた大作家センセエ様と恐れ戦かれるのかは、他者が後からハタで上げ下げしてることであって、自分の納得のいくまでする探求行為とはナ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ンの関係もないことである。結果的にどう評価しようともされようとも、それは、お互いの自由。いいたいのなら勝手にいわせとけば、いーのである*1。そんな外的なコトで折角の「楽しみ」を中断する意義も義理もない。
ところが「なにかやりたいんだけと、なにやっていいかわからない」無業者が、岡田本の「才能埋蔵マップ」で、「好きなこと」を見いだしたとしても、「アタシは○○が好き!楽しい!」って一人称で自己完結出来ない人がいる。その好きで楽しいことがマイナーで、周囲から共感を得られないことが、ひどく気になってしょうがないらしい。もしくは、自分が好きで楽しいことに埋没することそのものに、ひどい罪悪感や自己不全感があるようなのである。楽しくないならヤメりゃあいーものを、そゆ人はどうするかというと、「○○が好きなアタシが正しい」と声高にいい始める。自己の正しさを知らしめる為に、趣味の領域でさえ自己コントロールでなしに他者コントロールに向かう。
しかし、ヘンタイといわれよーが、ダサイといわれよーが、いーじゃあないの。ロリアニメで萌えてナニが悪い。きっちりと現実と区別して各人が自分のペースで楽しむことには、「正しい」つーの、余計な権威的価値観。大体、そゆ数をたのむ発想そのものが「クリエイティブ」ぢゃない。発想に解放されない、不自由な自己そのもの。
残念ながら昨今、そゆ自己承認という立ち位置=居場所さがしに夢中になってる人はとても多いid:hizzz:20041107。そういう層には、折角のプチクリの自由は届かず、「正しいアタシ」の補強材になるんだろうなぁ。
つい小手先の安易を選んで、結果的に行き場=可能性を狭くしてるってことなら、それはそう思った時点で見直せばいいことなんだけどなー。その行き場のなさ加減が心地よくってそこで煩悩ループしてたいならそれも良し。そこから始めようと思えば、新たな道ってのは、いつでもいくらでも見えてくるんだろうし。最低限そういう選択の自由は確保してるという確認さえ自己がついてれば、あとは〈個〉の裁量の範囲で、とやかくいうことではない放置プレイ。。。id:hizzz:20040602#p6

*1:自分の思ったとおりの評価が得られないといって怒ったり、落ち込んだりしてる人は、学者様でも大作家様でも雑文屋様でもよく見かける。が、上記にカキコしたとおり、ジゴトの能力とは自己コントロール力なんである。と、ゆー訳で、なにをどーエラソーなこといってても、思わぬトコでそのオレ様シゴト能力が、白日にさらされてしまうという仕儀なのである(まっ黒)。