問題のプロセス

過去にカキコした通り、いじめはまず第三者不在の固定空間の風通しの悪さということにつきる。いままで考えてきたことのちょとまとめ。

・囲い込みと多様性
親密感が高まるのは、なんらかの共通項=暗黙知をより多く共有することである。その共通項論理が成立する為に具合の悪い論理/実例をそぎおとし精度を高めることで価値を作り出す。そうした行為をもって相互確認することに充足感=自己利益を求める。そのような関係性で連帯したグループは、成員内で単一価値強化することが主眼となる。>ワクの倫理性id:hizzz:20040522、行為主体の意識id:hizzz:20040624#p4、自他の差別化id:hizzz:20061005#p1

・統治秩序
単一価値に囲い込まれた場では、統治する/従うことのみが、自己確認の為の唯一の手段となる為、それがいかなる手前勝手なオレ様であろうがワールドワイドを信仰する善男善女であろうが、自己正統性へのモラリスト=小さな個人主義者が常に問題行為実行者の先頭を切る。管理が問題となると、必ずセットとして関係エリア内での管理にそぐわぬ者の鼻につく(共感覚にさわる)行為が、本質的要因とは別の手っ取り早い取締対象として浮かび上がる。関係性認識強化の為の身近な補完構造としてネグレクト(シカト)/ハラスメント(いじめ)が試行され、そこで充足感が得られれば、さらに批難バッシング/差別迫害へと先鋭化する要因へと繋がる。>いじめ側のプロセスid:hizzz:20050302#p4、アイデンティティ政治id:hizzz:20061005#p2

・「行為」判断基準の偏向
行為結果を全治○ヶ月、金額○円といった当該者外的モノサシで定量換算することで「被害/損害」普遍化する外的殺傷や破損や盗難に比べ、心的虐待の当該者告発は、個々の立位置での量的解釈や感覚の違いで評価が揺れ動くこととなる。単一価値感による統治=囲い込みが貫徹している場での虐待行為は、むしろこのましいモラル発揮として行為者は正統化され、告発者はいちじるしく不利に陥る。>第三者不在id:hizzz:20040324

・共同謀議=空気の理論
あうんの呼吸な暗黙知が支配する関係、第三者傍証の得られない「空気の論理」が支配する密室状態では「傍観者」も含めた場(集団/共同体)の全員が対象となるだけに、その対象内での個々の行為認識を明確にするのは、困難を極める。>共同体共感への適応行動id:hizzz:20040716#p1、共謀共同正犯id:hizzz:20061022#p1

・自律としがみつき
モラル関係性で単一価値感に秩序統治された場では、被害をうけて初めて個人を認識する。が、そうした単一価値を自己内部迄ひきこみ身体モラル化した者は、否定認識する感情と従うべき連帯モラルとの間で葛藤したまま、他の価値感を受け入れない。そうした供依存的関係を唯一としてしまうと、自己を迫害する意図に共感し引受けること以外に生存=関係維持方法がないと思い詰める。一方で自己投影でもあるそのような被害ー加害関係はささいなキッカケで容易に逆転する同一価値となるので、優位に立っている側は攻撃することが自己防衛となる。>作られるDQN id:hizzz:20040624#p4

被害の定量評価

「いじめと認識するか否か」「自殺との因果関係」で対応迷走しセカンド/サードハラスメント化して、世間の格好のバッシングネタと化した学校&教育委員会のケース。一見不可能そうに見えるこの問題の定量評価は実は存在する。いじめをハラスメントとワタクシさんざん表記しているとおり、セクシュアル・ハラスメント/DVにおいて最もそれは実践吟味され多くのガイドラインが作成運用されている。セクハラ/DVは男→女間の行為と固定観念化してはいけない。ナマイキな奴をヘコませて従わせてやろうという中には、相手に恥辱を与え優越感を得る行為のひとつとして同性間の性的虐待が行われる。また、見知らぬ仲であればそれは痴漢や障害となるのに、顔みしりの集団や酒場等での同様行為はしばしば無礼講と勘違いされる統治権力者がダブルスタンダードを使い分ける様も、同じである。なによりも被害者が集団の中で苦しむのは、個人の尊厳か連帯モラルかのダブルスタンダード的理不尽で出口がないことである。
男女参画ということで、企業にはこのセクハラガイドラインと運営機関の設置が法的に義務づけられ、総務部などがクレーム対処している。更に最近はCSR(企業の社会的責任)の括りで、ダイバーシティ(多様性)というマイノリティの価値を積極的に認めて組織を活性化しようとする運動を採用する人事部が出てきた。
そうした多視点に依る価値評価の試みから一番閉ざされているのが、権力上下構造を存在根拠とした学校や教師なのではないか。最近の生徒手帳/校則はどうなっているのかわからなのであるが、とまれいくら未成年でも、バカなどと侮辱すれば名誉毀損、意にそわぬ行為を強要すれば恐喝、ノートや教科書にいたずらすれば器物損壊、持ち物隠せば窃盗、たとえ同性間でもパンツおろそうなどとしたら強制猥褻、見てみぬフリをすれば共謀だ位、個人尊厳の権利とその侵害を社会教育すべきであろう。

多様性の中の学校

教育は国民の義務だそーだが、それでは教育を授ける権利というのは、保護者/教師/学校/国家、一体全体ダレのものなのであろうか?
かってそうした学校の批判者として有効だったのが学生運動日教組だったのだが、学校以上の硬直化した運動を展開して、結局管理主体の補完構造となって、第三者の不在がさらに強化されていたりする。そして今の高校の単位未履修もそうだが、どうも今は教育支配権を学校=文科省と国=政府とで取り合いしてる有り様。はぁ〜なんだか。ぐったり。
未履修問題で塩崎氏「文科省は信頼失った」
http://www.sankei.co.jp/news/061031/sei011.htm
森元首相に聞く 参院選争点は「日教組壊滅できるか」
http://www.sankei.com/news/061031/sei001.htm
教育基本法改悪阻止に全力を「非常事態宣言」
http://www.jtu-net.or.jp/news/06/10/26n1.html
多様性の世の中なのにもかかわらず、教育取得様式が単一ってことが原因で、いじめも含めて様々なとりこぼれが起こる。が、所詮、4年間ばかりの大学教育の経験値をもって、同一密室空間内で反復を繰り返している教師にその変容する世界を持ち込む生徒の全てに対処しろゼネラリストたれといっても、それは無理難題である。それは教師自身も判っているから、自分の手に負えない問題が発生している事実を認めない。認めたら対処しなければならないからね。それで、認めないまま学校空間を維持しようとするから、そのセカイを抱えこんで抑圧して、結果、他者性社会性を失う。
それならば、不可能だと公言してやれることのみに専念すべきなのだ。教育する中身を限定する。と同時に外部選択肢を常に可視化させ情報公開する。無論、世間も学校にそれ以上期待しない。それでようやっと学校は学問する場所に還ることができるのではないだろうか。

社会的主体〈公〉

教育とは、個人がいかに社会で自律主体となっていくかということであろう。
米国と「一億総懺悔」的共謀共同正犯を利用して主体ハズシを行った戦後日本は、敗戦のトラウマに陥ることなくエコノミカルに国際的プレゼンスを回復した。へたに主体を持つ=出すと四方からハタかれてヤバイという護身で、「欧米列強に追い越せ追い抜け」を引っ込めた後に謳歌してる筈の「自由意志をコントロールする理性的人間」という近代契約主体は、「一億総懺悔」的戦後処理で速攻はずされたのではないだろうか。
自分が能動言動したのにも関わらずそれを空気の理論のセイにしたりする責任主体である都合良い自覚の曖昧さは、いじめの陰湿化に直行する。被害者だけ存在して、あとは曖昧模糊とした状況が朦朧と続く。更に、自己主体を認識しないということは、鏡としての他者主体は認識出来ないということであるから、様々な意識に基づいた言動は全てモノローグと化す。それでは他者性社会性は到底担えず自律できないので、類似モノローグの依らば大樹の影に居場所を見つけるしかない。しかしそれは類似という隣り合う関係の被妙な差異を巡る軋轢がもっともストレスと化すという閉じた円環ループをしばしば繰り返す。
大きな関係である国際間ではエコノミカルなプレゼンスが成功しすぎて、他者各国から日本ナニ考えてんだマネしだキモいブキみと突き上げにあうと同時に、自主性ナキそうした存在方法自体を嘲笑され続ける。しかし笑われても、その大樹が磐石とした根を張って頑丈な内は安泰だったのだ。ところが昨今、その大樹=米国が迷走してぐずぐずになっている。このまま一蓮托生で大丈夫なのか不安が走る。変わりの大樹も見つからない。しかも、さんざんみかじめ料を払いつづけた大樹ときたら、やれ出しゃばるな、やれタダ乗りするんなと、注文が加速する。
「Noという日本」の内実は何か。戦前の「西洋においつけ追い越せ」も「一億総懺悔」ももう無効。したらなにか立ち上げなければならないのだが、肝心の国民は相も変わらず主体ヌキの関係性の連帯で、エコノミックアニマル貯金をぬくぬく2世代消費蕩尽。だがそれでは、そろそろ国家が先細り。しからば、国側でこしらえた「個人というフィクション」を再チャレンジや共謀罪などでしっかりかぶってもらうことで現代的責任主体としての再生が国家につらなる、そゆ文化=政治的にクリアしようとする「美しい国」づくりのモラル=共謀共同政策が、急始動してるってことであろう。>目的=手段=正統化の三位一体id:hizzz:20061005#p3

社会的自律主体〈個〉

それで、問題は個々に戻される。関係集合体(世間)や社会/国家と個人はどう付合えば良いのか?他者が提示するそうしたフィクションでない個人主体を自律させていく為には、どうすれば良いか?
〈私〉=〈公〉の一体化、一心同体が在るべきカタチなのではなく、多様性な営みと公的共同体をどう両立させていくか。それには欲望や感情等の個人主体は個々の私的部分で確保したその上で、世間共同体や社会との合意形成への合意を図って行く社会的自律主体=呼応責任主体を、〈私〉と〈公〉の調整クッションとして個人自前で表象として立てる、内観から外的能動までの段階を作って、そこに多様性を保持していくという考え方はどうであろうか。自由闊達なオレ様私的エリアと共同参画していく公的エリアをそうして区分けした自己システムでマネジメントして、外的価値に暫定判断として接続/断線する。外部多様性回路と共に内部可能性も担保する。そのように自己内外に多様可能性を保持してくことが、「個人というフィクション」をモラル強要しがちな世間/国家に立する個人の最速有効な方策となりはしないか。それがないまま、国家政策に準じても、抵抗運動体と連帯しても、他プランに賛同しても、「みんなでない自己」主体は立たないであろう。