美しさの内実

ひと様のブログで半端な野暮天をしたので、う〜う〜目をこすりつつちとフォロー。

日本は美しいです、という説明はまさに人畜無害、対外的には意味がないし、メッセージもないからである。「戦争をしない」というのは私とあなたが国家の対立のもとで、殺しあうことはないという実に直裁で現実的なものすごいメッセージなのである。別の角度から言えば、「戦争をしない国」というのは国旗や国歌よりもはるかに具体的で強力な日本という国家のアイデンティティとして実効しているのだ。

id:kmiura:20070124#p2「戦争をしない国」

当ブログ上でも何度も書いてるが、理念とか美学とかは国でなくて、個人が勝手に持つなり持たないなりして活きていけばよろしい。で、あるので「戦争しない」とか「美しい国」を理念とすることは個人主権の範疇である>思想信条の自由。また、「国家の品格」なるものを自画自賛したり自己主張演出したりすること程、謙譲の美徳〈日本的〉忖度システムな品格に欠け美学のナイ行為であるように思えるんだが。。。
数人の素朴なやりとりそのものをどうこういう訳ではないが、それを基にこの問題を展開してしまうのは安直に丸めてしまった印象操作的感があり、いささかまずい論の立て方であると思う。当該ブログの他箇所に書かれているkmiuraさんの様々な想いを加味すれば、そんなに単純な考えからこのことが道引き出されていることではないのは、重々承知しているつもりである。が、その丸めた明快さ=断定による強さが今回多く人をひきつけたこともあり、尚更、センシティブなファクターの深みを横断して書くことこそが必要だと思う次第。

Beautiful Japan

美しい国」といったら、安倍晋三の政治コンセプトだかアイデンティティだかスローガンだかキャンペーンだかを示しているのが世間では一般的である。が、しかし、この手のネーミングは別に安倍オリジナルでもなんでもない。「美しき日本(Beautiful Japan)」というキャンペーンは大正〜昭和にまたがって国をあげてとりおこなわれてきた。
id:hizzz:20040424#p4
前に「日本化を纏う日本」id:hizzz:20050505ということで、絵はがきに見る日本イメージをざっくり紹介したが、おとぎの国=ジパングを継承したジャポニズム*1が西欧近代でもてはやされてるのを逆輸入して政府は、外貨獲得の有効手段として外国人観光客の誘致に本腰をいれだす。丁度、定期航路等が整備され発達した交通機関も相まって冒険家のものだけではなくなった旅行が欧米ではブームとなり、沢山の旅行記が出版され、それが日本を含めた「オリエンタル」地域へのさらなるロマンをかき立てたのである。それだけでなくここには日露戦争以後高まった黄禍論を、近代化にいそしむ「人畜無害」な浮世絵の国へのイメージ替えという意図がある。そのラインでも、安倍の「美しい国」は似てるのかも。
1912年(明治45年)に鉄道/船舶/ホテル業界があつまって旅行斡旋業「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」が設立。大正期には、各地の人々や産業を写した映画「Beautiful Japan」が、ロシア系米国人監督で製作された。http://tokyocinema.net/BJm.htm
上記掲載ポスターは1930年鉄道省に設置された国際観光局の基、ジャパン・ツーリスト・ビューロー日本郵船、帝国ホテル等の有志で製作されたもの。米*2に7000枚、欧州に2000枚配布。日本美=富士山/桜/芸者のプロトタイプは、このように西欧ジャポニズムに乗っかった官製国策イメージだったのである。
VISIT JAPAN CAMPAIGN 国土交通省 http://www.vjc.jp/

*1:クリスチャン・ディオールの今年の春夏コレクションは、ジャポニズムhttp://www.style.com/fashionshows/collections/S2007CTR/complete/thumb/CDIOR

*2:カリフォルニア等の日系移民排斥運動の高まりで1924年に排日移民法が制定され日系移民禁止されていた。

made in Japan

上に書いたように戦前の「美しい国」キャンペーンは外貨獲得という経済的動機が主であった。では戦後は「戦争放棄」がメインコンセプトとなっていたかといえばそうではない。そういう抽象概念=信仰を掲げることこそを、放棄したということはいえないだろうか。
戦後日本のアイデンティティ&実績を言うなら経済立国に他ならない。士農工商ヒエラルキーが抜けない政治左右派の思索はいつもそれを排除するが、戦後賠償代わりのバラマキODA外交は、最大最強の安全保障でもあったのである。また、直接取引きの許されてない軍事対象品規制があった80年代冷戦の時代(COCOM 対共産圏輸出規制)に於いてソ連は米国に継ぐ、日本工業製品の上得意先であった事実がある*1。made in Japan、そういうカタチ=「有用/無用」の在り方は「エコノミックアニマル」といわれもするが、戦後国としてのアイデンティティや美学を封印することが結果的に「正義/平和」などという1ヶ所からふりかざした抽象理念よりも明らかに多元的世界で部分共生可能な知恵だったのではないだろうか。とかく思想政治を振りかざし志の高さを競う前に、観念より実用*2というこうした地べたのやり方の有効性を身の丈評価してくべきではないだろうか。
と、これは、id:kmiura:20070125#p2で「日本の企業が中東に進出しやすかったのは、日本人に対するポジティブなイメージがあったからだと思います。」と呼応されている。
第1回参議院政府開発援助(ODA)調査派遣報告書
http://www.sangiin.go.jp/japanese/koryu/h16/h16oda-houkoku01.htm#mokuji

*1:商社と第三国を経由して取引きをしていた工作機メーカー東芝機械社員が米国内でFBIにおとり捜査で逮捕された事件があった。id:hizzz:20040520

*2:コンセプチャル・ハイアートより実用マルチカルチュラリズムということで、オタクやファッション等の現代サブカル文化も含む

憲法とアイデンティティ

ワタクシは前に書いたとおり、左派ならば9条のみどーこーいうより、歴史的観点からも主権在民的観点からも整合性の取れない1〜8条削除しろというのがスジであろうと考えてる。またワタクシは「××しない」という否定系ダケによるアイデンティティ(自己肯定)は行動矛盾に至る危険な方法論であると考える。大体、9条が出来た当時想定していたのは、国家間の総力戦であったが、911以降考えれば、国家vs非国家団体間の紛争のほうがはるかに多発してリアルだ。しかしいくらリアルといっても、「戦争しない」紛争対処法をもってして国民アイデンティファイするというのは、いくらなんでも非日常であるし、まず「戦争」という前提が常態として持つ殺し合いへの対峙、そんなバイオレンス政治を日常としてメインにすえなきゃならない生活なんざ、ゴメンこうむる。大体「戦争する」というのは軍隊が合法化されている国家でさえ、戦争は通常できうるだけ回避するものであろうことが国際的コンセンサスだろう。ところがそれを国民国家信条として「戦争しない」とアイデンティファイするのはとても特異な発想。「戦争」というのは個人でどうこう出来うるものではないからだ。戦う/戦わないという選択が可能で有効的なのは、戦いたりうる「力」を持つ強者である。それは切捨御免を自らの能力として担保している武士の発想であろう。対峙できうるパワーを持たない弱者は戦争に参戦出来ず、巻き込まれるか逃げるかしかないのだから。無論だからこそ「核武装論」というハナシが出るのだろう。このように武装強行論な右派と非武装論の左派はダイハードな同じ前提を有する者達であるのだが、そのダイハードがで強烈であればあるこそ自己持論が「明瞭」に活きてくる為とかく価値二分法になりやすく、その二分法からハミ出すものをオミットしてしまう。とまれ「殺し合いしない」ことを誇りにされてもとまどうのは、殺し合わない有意義よりもなによりも、それが前提とする殺すか殺されるかというマッチョな世界観の共有を国民主権の名の基に個人にせまる一方のネガティブなものだからだ。仏憲法の国家〜個人で共有できうる「自由・平等・博愛」ポジティブとは同等の扱いにはできない。そゆ意味でも made in Japan のほうがはるかにマシ*1
さて、相手がなんであれ紛争の最中に「美しい国」とか「正義」が相手にとって無力なのと同時に「戦争しない」と第三者的にいったところで、ずざけんなということで紛争は治まらない*2。そこで補完するものとして、kmiuraさんは国際協力隊的なものに自衛隊を変革していくことを提唱している。これが「違憲状態」で在り続ける組織の一番現実的かつ有効的落しどころであろう。

*1:但し「希望の国、日本」(経団連 略称・御手洗ビジョン)ナシで。>規制改革などを実現することで、15年まで名目で年平均3.3%、実質で同2.2%の経済成長を達成できると試算、成長を重視する安倍内閣の「上げ潮」路線に同調。財政健全化のため、遅くとも11年度までには消費税2%引き上げ、産業の国際競争力強化のため、国・地方税を合わせた法人実効税率を10%引き下げるよう求めた。 さらに、10年代初頭までに戦力不保持を定めた憲法9条を含めた憲法改正、中央集権体制を改めて、自立した広域経済圏を目指すため15年度までの道州制導入も提唱 アジア諸国を中心に経済連携協定(EPA)の締結を急ぎ、東アジア共同体の構築を目指す方針。http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2007/vision.html

*2:左派には〈抵抗〉形態として「非暴力直接行動」というこれまたややこしいフィクションがあったりする。>酒井隆史『暴力の哲学』ASIN:4309243088

改憲の権利

いわゆる護憲派の方々は「9条を改変するから憲法改悪のための「国民投票法案」に反対する 」という主旨で、「国民投票法案」制定を反対してる。

憲法改正国民投票法案」の問題点−専修大学教授 隅野隆徳
http://www.jca.apc.org/~kenpoweb/articles/sumino0402.html
日本弁護士連合会−憲法改正国民投票法案に関する意見書
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/2005_14.html

しかし日本国が民主主義であることに合意してるのならば、日本国憲法は民意で変更されることをルールとして具体的手続きが明確に法制定されてなければ、主権在民法としては条件を満たしておらず欠陥である。憲法として完全に機能していないのである。今回の与党案が国民主権を反映してないのなら、反映出来うるマトモな案を国民主権有識者=議員代議士/国政機関のドコの誰も今迄立案してこなかったこの不備は、民主主義にとってゆゆしき事ではないのか。その意味で日本国憲法は民意の反映をはねつけて護憲され続けていることになるのではないか。
9条といわず改憲論がでても、堂々と国民論戦をして国民投票を勝ちとれば良いのだ。それが民主主義のシステムでないだろうか。制度を不備なままにしておくことではなく、改変できうる制度が完備してあるが改変しないでいる、それでこそ「護憲」のカタチを示し確認し続けることであろうし、そういうことに責任を持っていくことが「日本は戦争しないと決めたんだ」とリアルに言えることであろうに、何故か主権在民を強調する左派市民派に於いても、そゆハナシには一向にならない。殆どの「国民投票法案反対」は、国民投票案が制定されたら9条改憲されるから反対という、制定&改憲権利担保=主権在民よりもなにより先に9条護憲ありきなのスジ違いな理屈である。それどころか「ポピュラリティ政治」「ネット右翼」論により、無知蒙昧で煽動されやすい庶民ということで、「民意」を危険視さえしている感すらある。それは左派だけではない。左右共に「民意」なるものを〈個〉の明確な意志表示を露程も信じていないから、議員代議士/国政機関の既得権益を通さない直接民主主義的「国民投票」方法なんぞスルーだったのであろう。
「個というフィクション」による世間を代行する家父長ヒエラルキー」=共同謀議な「忖度〈村〉社会」代理制運動とやらのネジレがここに在る。