人権vs国家システム

法律っていったら、クソおもしろくもない四角四面な文言がならんでるに決まってると思いきや、各国憲法は、それぞれの固有の歴史が行間に濃厚ににじみでていて、あれこれ想像出来て以外にも読み物として面白ろかった。ナニを見くらべたかったのかといえば、主権の順番と構成。いわばその国にとってのプライオリティは、意識してることはナニかな〜っということだった。たとえ社会主義国であっても、今では人民主権を最先にすえてることには、変わりがない。
大きい流れとしては、君主〜政府〜議会〜国民へと主権が移り増大していってる、間接民主主義から直接民主主義へといったところか。それに従って、独や伊で設定されている、司法&警察でもない「護民官」や「外国人保護」、更にはイタリアの平和的国際組織による「(国家)主権制限」など、理念的には「国民国家」を越える人権により大きく労をとっている。国家/議会/政府といったシステムに関しては「手続き」=ルールに徹する傾向なのかも。
前記例の中では、日本は仏に次いで3番目に古い憲法となる。だからか、前大戦の負の遺産大日本帝国憲法)の上に立ってる性格上、「国際平和」を重ねて唱えども、他国に比べて人権への国家侵略といったことには、同じ敗戦国(伊/独)や独裁の続いた韓国/スペインなどのこだわりぶりに比べて、今日的には物足りない感。「基本的人権」は個々が持つとストレートになってなくて、憲法が保障して天皇承認で「与えられる」フィクションを介すまわりくどさ。

モラルとルールの運用

う〜ん、どうしてそうなのかと考えるに、日本と他国はモラルの持ち様の違いがあるのではないだろうか。特に西欧諸国に於いては、ベースにキリスト教を始めとする1神教がモラルとして根づいている。モラルの成文化は聖典が受け持ってる。政教分離と共に、宗教にはナイ概念、主権在民を独立成文ルール化したってことかな。ところが、元来アメミズムな顔の見える忖度主義で小さな個人主義がよりかたまった日本ではid:hizzz:20060921#p2、モラルは「人を慮る」関係性の中に空気のように曖昧なカタチでセマンティクにあって、其の都度変化する。そこへ頭上よりふってきたスタティクに固められた成文法は、即共通モラルとなって全体をくくろうとするのに対して、本来それに対等対峙してしかるべきであるセマンティクな個々意思表示を常に必要とする民主主義という方法は、「人を慮る」忖度主義とは対立しストレスを生む。そこで憲法=神聖不可浸で聖域化して奉っとくことによって、ごちゃごちゃ考えずにスタティクに現状維持ということにすれば、個々は意志を詮索されなくて主体ヌキで楽ちん「法律が護ってくれてるから」=御札という意識が強いからなのだろう。
後、中国の序言で見られる朗々たる革命正史、正統性への修辞は、昨今の教育基本法で与党内でボツになった中曽根@大勲位が書いた前文をおもいだしたのだが、とかくそうしたものをルール文におりこめたいという「美辞麗句」野望、これは政治思想の右左というよりも漢籍素養がモラルにある賜物なのだろう。それと、かって89年代初めに「写楽」編集部が「美しい憲法を読みましょう」と桜や富士山のカラー写真と教科書風に組み合わされた憲法全文の本『日本国憲法―ピースブック』が出てブームとなったように、正統=折り目正しさへの敬意ヒエラルキーは、一度設定された国家の根幹文章を後から改変するというフレキシブルな思考を阻むのことともなる。

近代知の不幸=幻想のアジア

ところで日本の第9条「戦争放棄」は、対外的にはドコに向かってなされているのだろうか?侵略したアジア諸国と米国かなぁと、旧日本の中韓への戦争犯罪告発が盛んゆえ、それを引き寄せて思ってきたが、どうももう一つしっくりこない。
なんだろ? それは、敗戦相手の連合国は西欧(赤化した中国/ソ連は、西欧にとってはオリエント=アジアだ)という事実を過小視していたことでもある。が、占領政策の中で憲法策定された時は、当然、中韓よりも西欧連合国的視点の方が大きいのではないだろうか。だとしたら、第一義的には連合国に向かってると考えてもおかしくはない。
亜細亜*1というくくりは、日本/大和にはもともとナイ。日本の外部は、「支那」とか「朝鮮」とか、西方の彼方は「天竺」、南の彼方は「南蛮」。オレ様中華はもとより朝鮮半島にだって、そんな概念ナイ。自分達のエリア"Occident" とそれ以外 "Orient"でカテゴライズ、それは西欧が意識した世界観だった。自分達と違う未知の世界オリエント=アジアを自分達の知性で把握し「理解」することによって、ようやっと普遍理論=世界観が統合完成する。
科学的理性と万物流転の神秘「東西文化の融合」、そんな西欧の夢「理性の正しい使用」id:hizzz:20060921が最も最先端文明思想として、西欧近代化するアジアに逆流されたにすぎない。「亜細亜はひとつ」それこそが日本が世界に出て行く先として、理念を具現化歴史化しようとした。とまれ、それが枢軸国であろうが連合国であろうが、あの時代、ロマン主義のハテの帝国主義的熱狂に突き動かされていた。それは、近代の反語としての反近代とその統一の夢の具現化、そんなオリエント思想を結実させるプランとして編出されたのは、八紘一宇大東亜共栄圏、そこで日本は世界ならぬセカイに呪縛された。
戦争放棄」を明文化しとかなければならない不幸とは、侵略の凄惨な事実と共に、あの戦争を日本は「大東亜戦争」と考え自己を位置づけてしまったことが大きな背景としてあるのではないだろうか。以前に書いたとおり「美しき国」と「禍黄論」*2の間、西欧ー東洋という西欧の世界観(唯一真理=普遍的理性)を学び引き受け、西欧に追い付け追い越せ一等国となろうとしつづけた、極東国という意味で。いま、「平和憲法」と「日米軍事同盟」の間で、西欧=一等国=国連常任理事国になろうとする野望が捨てきれないのならば、「戦争放棄」、このような戒めも又重しとしてはずすことは出来ないのかも、、、しれない。

*1:フェニキア語が語源と言われている

*2:この「恐怖」は元々日本でなく「韃靼」、「タタールのくびき」がユーラシアに与えた民族大移動の衝撃から由来してるのだろうが

主権在民の行使のさせ方

憲法を変えるかどうかと改憲手続きの明文ルール化とは、以前書いたとおり別問題である。>id:hizzz:20070126#p4
モラルとルールの運用で書いたように、国内議論では、なにか完成されたヒナ型が先にあって、後は、それに不可分に従っていれば良い的モラルトーンが強いようにおもわれるが、各国をみてみると、どうも其の時其の時のそれぞれの歴史的齟齬な痛みの解消を第一にしている、もっと実用的で流動的な文意に思える。日本で叫ばれてるような護憲精神とはバッティングせずに盛んに改定がなされ、現代に沿う条項が次々と追加訂正または廃止/全面改定されている*1憲法はモラルではなくルールなのだ。そもそも各国でも規定されてる「護憲」とは、決めたコトを変えないでおく神聖不可侵ではなく、民意を如何に護る運用をしていくかといった人権的意味あいではないだろうか。
政府に改悪される可能性があるから改憲手続きを不明にしとくという憲法改正国民投票法案制定そのものに対する理由は、目的の為には手段を選ばない近視眼で恣意的すぎる。改悪される可能性がなくなるなんてことは、永遠にナイのであるから、第一それでは民主主義そのものが成り立たない。良かれと思ったことでも、時がたって現状に合わなくなるからこそ、ルールは常に現状に試され合意を取って修正削除してく方法こそが、常にシステムに反映される主権在民の根本理念なのでは。

日本国憲法に関する調査特別委員会
http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_kaigiroku.htm
自民党日本国憲法の改正手続に関する法律案 要綱
http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/youkou/g16401030.htm?OpenDocument
民主党日本国憲法の改正及び国政における重要な問題に係る案件の発議手続及び国民投票に関する法律案 要綱
http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/youkou/g16401031.htm
改憲手続法案 与党案・民主党案と「修正案」 自由法曹団
http://www.jlaf.jp/jlaf_file/070124taisyou.pdf